2022年04月27日
懇談会。 6(5-4) 大正から昭和へ (わたしたちの村つくで 改訂版)
午前中は雨の降りそうな曇り空でしたが,昼頃からは晴れた日になりました。
新城市観光協会からお誘いがあり『歴史の見えるまちづくり』市内ネットワーク作り懇談会に参加しました。
市内で“ボランティアガイド”をされている団体がいくつかあり,それぞれ活動されています。その活動内容を“つなぐ”ことで,さらに充実した活動を創っていきたい,いければという思いをもった懇談会でした。
来年,NHKで大河ドラマ「どうする家康」の放送が予定されており,ゆかりの地として訪れる方が多くなるでしょう。
懇談会での話は,初めて知ること,活動がほとんどでした。これらの情報・活動が,訪れる方に喜ばれることは間違いありません。
今後,市内の“ネットワーク”が密になり,広がっていくといいなあと思います。(懇談会の話題は,また別の機会に。)
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(2004新改訂版発行)の「6 作手村のうつりかわり」からです。
********
5 明治から平成へ
大正から昭和へ
くらしのうつりかわりにきょうみをもったみねこさんは,大正生まれのひいおばあさんに,当時のくらしについて聞いてみました。
交通の発達
大正時代から昭和のはじめにかけて,道路が整えられるようになり,作手村の様子は少しずつ変わっていきました。
今の国道301号は挙母街道といわれ,当時はけわしい坂道ばかりで,荷車も通れず,馬や牛のせなかに荷物をつけて運ぶのがやっとでした。1925年(大正14年)には田原までが整備され,新城と作手の行き来がとても便利になりました。そのほかに,岡崎設楽線,岡崎清岳線,保永海老線なども昭和のはじめまでに整備されました。
1928年(昭和3年),東三自動車株式会社ができて,新城と清岳の間で乗合自動車を運転するようになりました。続いて,1933年(昭和8年)には額田の宮崎と高里の間に,翌年には,岡崎と田原の間に乗合自動車が通るようになりました。
新城と清岳の間の乗合自動車は,その後高里までのばされ,1935年(昭和10年)ごろから中型のバスになりました。作手の人たちは歩くことになれていたためか,はじめはあまり乗る人がなかったということです。しかし,村の人たちの生活は変わり,村外に出ることが多くなったため,バスは村の交通機関として大切な役割を果たすようになりました。 ********
注)これまでの記事は〈タグ「新わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。
【関連】
◇新城市観光協会
◇新城市観光協会ブログ
◇キラッと奥三河観光ナビ
◇たぁ~んと体感 奥三河(キラッと奥三河観光ナビ)
◇新城市観光ガイドマップ(新城市)
大河ドラマ「どうする家康」(NHK)
◇あいち観光ボランティアガイドの会
【参考】
郷土読本『わたしたちの村 つくで』に掲載された県道改修は,記念はがきとして配付されたようです。
その中から。
新城市観光協会からお誘いがあり『歴史の見えるまちづくり』市内ネットワーク作り懇談会に参加しました。
市内で“ボランティアガイド”をされている団体がいくつかあり,それぞれ活動されています。その活動内容を“つなぐ”ことで,さらに充実した活動を創っていきたい,いければという思いをもった懇談会でした。
来年,NHKで大河ドラマ「どうする家康」の放送が予定されており,ゆかりの地として訪れる方が多くなるでしょう。
懇談会での話は,初めて知ること,活動がほとんどでした。これらの情報・活動が,訪れる方に喜ばれることは間違いありません。
今後,市内の“ネットワーク”が密になり,広がっていくといいなあと思います。(懇談会の話題は,また別の機会に。)
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(2004新改訂版発行)の「6 作手村のうつりかわり」からです。
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5 明治から平成へ
大正から昭和へ
くらしのうつりかわりにきょうみをもったみねこさんは,大正生まれのひいおばあさんに,当時のくらしについて聞いてみました。
交通の発達
大正時代から昭和のはじめにかけて,道路が整えられるようになり,作手村の様子は少しずつ変わっていきました。
今の国道301号は挙母街道といわれ,当時はけわしい坂道ばかりで,荷車も通れず,馬や牛のせなかに荷物をつけて運ぶのがやっとでした。1925年(大正14年)には田原までが整備され,新城と作手の行き来がとても便利になりました。そのほかに,岡崎設楽線,岡崎清岳線,保永海老線なども昭和のはじめまでに整備されました。
1928年(昭和3年),東三自動車株式会社ができて,新城と清岳の間で乗合自動車を運転するようになりました。続いて,1933年(昭和8年)には額田の宮崎と高里の間に,翌年には,岡崎と田原の間に乗合自動車が通るようになりました。
新城と清岳の間の乗合自動車は,その後高里までのばされ,1935年(昭和10年)ごろから中型のバスになりました。作手の人たちは歩くことになれていたためか,はじめはあまり乗る人がなかったということです。しかし,村の人たちの生活は変わり,村外に出ることが多くなったため,バスは村の交通機関として大切な役割を果たすようになりました。
注)これまでの記事は〈タグ「新わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。
【関連】
◇新城市観光協会
◇新城市観光協会ブログ
◇キラッと奥三河観光ナビ
◇たぁ~んと体感 奥三河(キラッと奥三河観光ナビ)
◇新城市観光ガイドマップ(新城市)
大河ドラマ「どうする家康」(NHK)
◇あいち観光ボランティアガイドの会
【参考】
郷土読本『わたしたちの村 つくで』に掲載された県道改修は,記念はがきとして配付されたようです。
その中から。
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