2025年03月13日
休んでいます + 異動検索

【教職員・公務員の異動検索】
あの先生は、どこへ
新しい先生は…
あの方は、どこへ
新しい担当は…
中日新聞・東京新聞に「教職員・公務員の異動」が掲載されるのに合わせ、ネット検索(先生サーチ・公務員サーチ)ができます。(4月31日まで)
これまでに発表されている県・市の職員・教職員の異動が調べられます。
(利用には、中日新聞プラスへの会員登録が必要。)

タグ :教員
2025年03月01日
「弥生」のはじまり
今日3月1日、「弥生」の始まりです。
旧暦では、「和風月名(わふうげつめい)」と呼ばれる月の“和風の呼び名(和名)”を使用していました。日本書紀から使われ、起源は分からないほど昔から日本人が使ってきたものです。
1月は睦月、2月が如月、そして弥生、これに続けて…、12月の師走まで。
そして、それぞれに由来があり、弥生は「木草弥生ひ茂る月(きくさ いや おひ しげる づき)」という言葉が起源です。「弥(いや)」は“いよいよ”という意味があり、「草木がいよいよ生い茂ってくる」という意味です。
何かと世間が騒がしく、社会や経済の動きから目が離せませんが、これからの“いよいよ”を楽しみたいものです。

旧暦では、「和風月名(わふうげつめい)」と呼ばれる月の“和風の呼び名(和名)”を使用していました。日本書紀から使われ、起源は分からないほど昔から日本人が使ってきたものです。
1月は睦月、2月が如月、そして弥生、これに続けて…、12月の師走まで。
そして、それぞれに由来があり、弥生は「木草弥生ひ茂る月(きくさ いや おひ しげる づき)」という言葉が起源です。「弥(いや)」は“いよいよ”という意味があり、「草木がいよいよ生い茂ってくる」という意味です。
何かと世間が騒がしく、社会や経済の動きから目が離せませんが、これからの“いよいよ”を楽しみたいものです。

2025年02月26日
歴史から考えた(2.26事件、二〇三高地)

また、昭和40年に生まれた方が60歳の還暦を迎える年です。
“人生100年時代”と呼ばれて久しい今、還暦を話題にするのは相応しくないかもしれませんが、2025年に「100、80、60、40」と並ぶ数字に、意味があるように思います。
それは、次への“起点”であり、新しい“出発点”となるもの(年・数)です。
1936(昭和11)年の今日、ニ・二六事件が起こりました。
4年前(1932/05/15)の五・一五事件に続いて、軍隊の将校達が起こした反乱です。
それぞれ反乱は鎮圧され、失敗でしたが、政党政治が終わり軍国主義が台頭していきました。
歴史の節目となった出来事です。
明治時代に起こした日露戦争(1904年2月~1905年9月)があります。
ロシアの朝鮮進出をくいとめ、自国の独立と安全を守るために戦った…。
NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲で二〇三高地が描かれていました。旅順攻囲戦では最大の激戦地となった場所です。
圧倒的に不利な状況で“死闘”の末、二〇三高地を陥落させました。勝利…。
もし、この戦いに敗けていたら、その後の日本、昭和は別のものになっていた…。
勝利を喜び、意味のある戦い(日露戦争)と指導者はいうでしょう。しかし、その勝利は数多くの「歩兵・兵の犠牲」によって為しえたものです。ドラマのなかでも、そのことが出てきます。
さらに、この戦いで“小が大に挑む愚かさ”を学んだはずなのに、昭和に“同じ節目”を作ってしまいます。
5.15、2.26 も、その節目になってしまいました。
よい戦争や意味のある戦争はありません。
勝利は、犠牲になった人の元には届きません。
戦争は、起こしてはいけないのです。
誤った節目を生まないよう、歴史を知り・学び、考え、行動したい。
世の中、「良い人ばかりだから、争い(戦争)が起こる」のです。だって「自分は悪くない。悪いのは相手」だそうです。
悪い人が攻撃されるのは当然…。
本当ですか。
「悪いのは私」という“悪い人ばかり”になったら、争い(戦争)は起こらないでしょう。
すべての戦争、紛争の犠牲者に 合掌
【関連】
◇戦後80年/昭和百年(読売新聞)
◇プレイバック 昭和100年(産経新聞)
◇昭和100年祭 | 昭和200年に向けたカルチャー創造宣言
2025年02月23日
天皇誕生日。 地区総会。 『保健室には魔女が必要 MMMの息子』(石川宏千花・著)

そして、日本の「国家の日」「ナショナル・デー(National Day)」です。
昨日の午後、地区の総会(改選)がありました。
例年のように、本年度の活動、会計の報告があり、協議事項、議題の審議、次年度の組織など検討、決定しました。
高齢化の進む地域で、新たな“継承”があり、次への“勢い”が出るように提案があり、さまざまな視点や立場から声があり、長い協議となりました。
それぞれが“正しいこと”ですが、日ごとに高齢化していくなかで“持続可能な最適解を見出すのは難しいことです。
総会では、久しぶりに会う方もおり、いろいろな話をうかがえました。ありがとうございました。
子供達は、保健室の先生が好きです。ケガしたり、苦しくなったりしても、保健室で休んだらスッキリします。
“保健の先生”は、魔法使いなのでしょうか。
児童書コーナーにあった『保健室には魔女が必要 MMMの息子』(石川宏千花・著)を手に取りました。
主人公は、中学校の保健室の先生にして魔女。
考案する「おまじない」を流通させ、もっとも定着させた魔女が選ばれる七魔女決定戦に参加している。
魔女たちとの交流、魔女狩り団体MMMに関係する少年の出現、そして七魔女決定戦にも新たな展開が!
もろくて、かたくなな悩める中学生におくる連作短編集シリーズ、第2作。
今回の悩みは
★友だちばかりほめられるのが気になる
★将来の夢がない
★みんなとノリがあわない
★女の子らしい子になりたい
★だらだらしていると怒られる
★自分をみじめだと思ってしまう
それぞれの話は、
わたしは魔女だ。で始まります。
保健室の先生でもある。
魔法で何かを解決したり、何かを倒すことをするのではなく、日々「おまじない」を考案しています。
そのおまじないを、保健室に来る生徒に授けます。
悩める中学生たちの話に耳を傾け、時にはとっておきの“おまじない”を伝授する。なぜなら自らが考案する“おまじない”を流通させ、もっとも定着させた者が七魔女の最後のひとりに選ばれるから……。
一話が短く、短い時間で楽しめます。小学生の読み物としてぴったりです。
大人が読んでも楽しめます。
あなたも、みんちゃん先生の“おまじない”を聴きたくありませんか。
もくじ
ほめ上手になるおまじない
夢が見つかるおまじない
ノリがよくなるおまじない
女の子らしい子に なれるおまじない
だらだらしてても 怒られなくなるおまじない
自分をみじめだと 思わなくなるおまじない
【関連】
◇石川宏千花 (@hirochica_no)( X )
【おまけ:日経社歌コンテスト2025】
今年の「日経社歌コンテスト2025」の決勝が、2月27日(木)に開催されます。
大賞に輝くのは…。
◇日経社歌コンテスト(日本経済新聞)
◇日経社歌コンテスト (@shaka_contest)( X )
2025年02月18日
雨水。 6-04 中部地区の古石塔(3) (作手村誌57)

昔の農家では、冬の作業に代えて、農耕の準備を始める目安となる日です。
しかし、冬型の気圧配置が強まり、再び“強烈寒波”がやってきており、暦のようにはいきません。
凍結や積雪、寒さに備えて過ごしましょう。
この寒さを超えれば、“雪・氷から雨・水へ”と変わっていくかな…。
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 - 第二章 中世」-「第十節 古石塔」の紹介です。
城址に続き、作手地区に残る古石塔についての記録です。
現在では、記事にある状況とは変わってしまっている場所もありますが、石塔が建てられた当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
********
第二編 歴史 - 第二章 中世
第十節 古石塔
(つづき)
*中部地区の古石塔
〔大東峠の宝篋印塔〕 大字田原字南(通称出口の山林) (図10、11)
東田原から大東へ抜ける村道の峠左側にある。近所にあった石仏等とともに一か所へ集めたものか、多数の石仏や石塔とともに整然と並んでおり、4基のうち1基は大きなもので、塔身に梵宇が彫刻されているが、残念なことに相輪が欠失している。
○ 宝篋印塔(4基) うち2基が室町時代前期末で花崗岩製、塔身と宝珠が欠落している。この他に小形の基礎と花崗岩製で大形のものが有るが、ここには、そのうちから室町中期始めの梵宇入りのものを掲げる。
総高(相輪欠)86.2cm、基礎37cm×36cm、塔身22.2cm×23.5cm、笠27cm×43cmである。

前記宝篋印塔所在地の一角にあり、口碑に陸奥国磐城平城主の墓と伝わる。安藤氏は1803(享和3)年から1861(文久元)年天領になるまで田原村とその近村を治めた。陣屋は東海道赤坂にあり、領地の田原等へも代官が数回巡視に来たといわれる。笠塔姿で、塔身に安の一字が刻まれ塔身右側に「文化八未年」(1811年)、左側に「五月廿三日」とある。『寛政重修諸家譜』によると、安藤対馬守信成が1743(寛保3)年美濃加納城で生まれ、1756(宝暦6)5月21日陸奥国磐城平3万2,000石に移封となり、以後続いているが、これが領主の墓にしてはあまりにも貧弱である。
○ 笠塔姿(1基) 塔身中央に「安」の一字が有り、右側面に「文化八未年」、左側面に「五月廿三日」とあるが、当時裕福な農民ならば建て得た程度のもので、無傷である。
総高1m、基壇10cm×31cm、基礎14cm×38cm×34.5cm、塔身46cm×24cm×17.5cm、笠18cm×41.5cm、宝珠12cm×12cmである。
(つづく)
********
注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
注3)古石塔の所在記号が付されたものは、前項の分布図に表記されている箇所です。
《参考》
○ 古石塔とは、古くからある石造りの仏塔や石の塔を指します。
○ 石塔の種類?
層塔、宝塔、宝篋印塔、五輪塔、板碑、笠塔婆、無縫塔、石幢 など
○ 石塔の建立目的
仏塔は、仏教の開祖であるお釈迦様のお骨である舎利を納め供養する建物であるストゥーパ(サンスクリット語)に由来するといわれてます。
2025年02月13日
5cm高く…。 6-01 古石塔 (作手村誌57)

ご存じでしたか。
でも、“誤差の範囲”ではないの…。
明治時代から「水準測量」により行われていましたが、2025年4月1日に衛星測位を基盤とする最新の値「測地成果2024」に改定することに伴い、衛星測位を基盤とする最新方法での再測量を進めているそうです。
富士山の他にも高さの変更があるのでしょうね。
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 - 第二章 中世」-「第十節 古石塔」の紹介です。
城址に続き、作手地区に残る古石塔についての記録です。
現在では、記事にある状況とは変わってしまっている場所もありますが、石塔が建てられた当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 - 第二章 中世
第十節 古石塔
村内に現存する古石塔の種類は他市町村と同様で、宝篋印塔・五輪塔及び板碑である。数の上からは五輪塔が一番多く、中でも一石五輪塔が他を抜いて多い。次いで宝篋印塔・板碑の順であるが、板碑と称するにはあまりにも末期的なものなので省く。
中世の三河の石塔は、大体鎌倉時代以降であるといわれるが、本村のそれも古い物でも室町中期ころの造立である。中部地方の地質は関西から矢作川流域まで花崗岩地帯であり、豊川流域以東の加工石材は主として砂岩が主体となる。初期のうちは西三河製のものが東三河にもたらされたが、これは当時の文化が西から東に向って伝播されたからである。しかし西から伝わった石工技術は、花崗岩地帯の先端にあたる矢作川流域にもたらされ、次いで豊川流域の砂岩地帯に伝わった。この様な過程を経て東三河式となり、加工の容易な玖老勢石(南設楽郡鳳来町玖老勢産)による墓碑が産出されたのである。これも初期のうちは、幡豆郡の吉良吉田付近で西三河の石工によって作られたのではないかと言われる。したがって、村内の古石塔のほとんどが玖老勢石であるので、前記の観点や型式からして、それらは室町中期以後のものとみるのが妥当であろう。古石塔分布図は「作手村の城址」の項を参照されたい。
〔宝篋印塔〕
この塔は、平安中期に中国から伝った金塗塔の形に源流をひいたといわれている。塔身に宝篋印陀羅尼を納めたのでこの名が起ったが、一般には城主あるいは領主など支配階級の墓である。宝篋印塔は上から、相輪・笠・塔身・基礎・基壇からなっているが、この地方では基壇は見うけられない。相輪は宝珠・請花・九輪・請花・伏鉢より成り、笠は軒上に4段と軒下に2段の露盤(六段)があり、四隅に耳形の突起が付いている。笠の下に方形の塔身があり、基礎は塔身と接する所に2段を設けているが、これは笠の軒下と同様である。五輪塔4面には東方発心門・南方修行門・西方菩提門・北方涅槃門と梵字が刻まれるのが普通である。
西三河式は関西式の省略されたものであるが、東三河式は前記の西三河式を継承している。しかしながら東三河式は、それがさらに省略されて、古くは9本の凸帯になっていた九輪を7本からさらに5本とし、のちには凸帯を単なる刻線にまで省略している。請花は西三河式が8弁ないし6弁であるのに対し、東三河式では6弁から4弁となり多くは3弁である。また古いものは上下の花弁が互生であるが、新しいものは上下同位置であり、しかも蓮花には見えない。伏鉢も同様で鉢を伏せた形にはなっていない。笠は軒上3段、軒下が2段となっているが古いものには軒上4段のものもある。笠の四隅に突起が有るが古いものは直形三角形になっており、時代が下るに従い馬耳状の弧を描いた形になりしかも大きくなって外側へ突出しており、周囲に太い覆輪がついている。塔身には金剛界の四仏の種宇(梵字)を刻むのが普通であるが、村内のものには彫刻されたものはほとんど無い。この他不思議なことに村内の宝篋印塔のほとんどの塔身が無い。
〔五輪塔〕
五輪塔は平安後期より供養塔・墓標・舎利塔の意味をもって現われ、地方で最も親しまれた石造物であり、積石五輪と一石五輪に分かれる。積石五輪は特信の武士のものが多いといわれる。この地方では一石五輪が多く、これは長篠合戦当時の戦死者の墓とみてよかろう。
五輪塔は宇宙構成原素である地・水・火・風・空の五輪を、それぞれ方形・円形・三角形・半円形・宝珠形で現わし、これを塔形に積み上げるが、時代が下るに従い地輪は台座になり、水輪は塔身に、空・風・火の三輪は屋蓋の形の様になってくる。室町時代以降は宝珠の形が乱れ、空・風の両輪は同じ大きさのものが多くなり、各輪間の切れ目もはっきりしなくなる。五輪塔は普通四方に東方癸心門・南方修行門・西方菩提門・北方涅槃門の梵字を刻むが、水輪の四方に金剛界や胎蔵界四仏の種字(梵宇)の刻んだものもある。このほか仏像を示したもの、妙法蓮華経の5字や南無阿弥陀仏の6字を配したものもある。この様に五輪を積み上げるものを積石五輪と云う。
一石五輪は一つの石材を彫刻したもので、室町中期頃から非常に普及し、主に武士の墓として用いられてきた。東三河で砂岩製の東三河式が認められるのは室町中期以降のことである。東三河でも三河湾沿岸と豊川上流とでは製法が少し異なる。それは西三河式技法を用いて玖老勢石で作っても、仕上げはノミで突いたものではなく、刃物の様なもので削っているからである。ノミで突く場合は火輪の斜面などを丸くへこますことが出来るが、刃物で削る場合は平面となる。したがって、火輪などが平面なものはこの地方で製作されたものと見てよかろう。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
注3)古石塔の所在記号が付されたものは、前項の分布図に表記されている箇所です。
《参考》
○ 古石塔とは、古くからある石造りの仏塔や石の塔を指します。
○ 石塔の種類?
層塔、宝塔、宝篋印塔、五輪塔、板碑、笠塔婆、無縫塔、石幢 など
○ 石塔の建立目的
仏塔は、仏教の開祖であるお釈迦様のお骨である舎利を納め供養する建物であるストゥーパ(サンスクリット語)に由来するといわれてます。
タグ :作手村誌57
2025年02月11日
建国記念の日

もとは、日本の初代天皇である神武天皇が即位された紀元前660年2月11日を「紀元節」として、1873(明治5)年から1948(昭和23)年まで“祭日”にしていましたが、戦後、GHQが皇室と神道の関係が深いなどの理由から、祭日を廃止しました
以前に紹介した話ですが、
2月11日は「建国記念の日」であり、「建国記念日」ではありません。と、さまざまに論議のある(?)祝日の一つです。
東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏は「明治政府は初代・神武天皇の『即位日』を建国記念日に決めたが、史料的な裏付けはなく、戦後廃止された。復活を望む保守派は、みんなを納得させる苦肉の策として『の』を挿入した。いわば『配慮の結晶』なのです」という——。
“記念日”は、歴史的事実として日付が確定している日を記念するという意味です。
“記念の日”は、日付は確定していないけれど、そのことを記念する日という意味になります。
今年は昭和100年の年。終戦からは80年。大きな節目の年です。
いつもと異なる論議のあった一日だったでしょうか。
【関連】
◇令和7年2月10日 「建国記念の日」を迎えるに当たっての内閣総理大臣メッセージ(首相官邸ホームページ)
2025年02月10日
答申。 5-19 木和田古城址 他 (作手村誌57)

答申内容は、昨年度に続き…。
そして、付帯事項として…。
答申後、国民健康保険税に関わるお話をお聞きし、付帯事項から話を広げて意見を伺いました。
今後、何か変わってくることは…。
時間をいただき、ありがとうございました。
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 - 第二章 中世」-「第九節 作手の城址」の紹介です。
「歴史」について、これまでに『作手村誌』(昭和35年版)の記事を紹介しています。
項目立てを変えて述べられいる本版から、執筆当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 - 第二章 中世
第九節 作手の城址
(つづき)
*木和田古城址
〔所在地〕 作手村大字木和田家前山 (図7)
木和田と善夫の境界に当たる標高約700mの城ヶ根山上に、10mに15mほどの小郭があり、その西側に狭い帯曲輪がある。ジョウの名でわかるように南北朝期と推定される山城で、規模は小さいが東麓木和田氏の居館城に対し、その詰の城として、菅沼俊治の本城との間に、物見・狼煙などの情報伝達を司った城のようである。
城主としては『三河国二葉松』に、「涯田三郎左衛門、次桜井与右衛門」と載せており、「涯田」はキワダと訓ませるのではあるまいか。『菅沼記』では「祖木和田三郎左衛門ここに住し、後菅沼に移る」というが、この山上は水もなく到底人の住居できる所ではない。『南設楽郡誌』は桜井与右衛門を奥平の家老とし、上野国から貞俊に従ってきた桜井刑部大夫の子孫と考えており、『中津藩史』は「河合弥兵衛をして木和田村城ヶ根碧(市場より三里)を守らしむ。支ゆる能わず逃れて田原村牛古屋碧(市場より一里)に入る」と載せている。『二葉松』は「城ヶ根碧、河合八度兵衛」と記し、両者は同一人で、河合村(川合)の住人であろう。1571(元亀2)年武田氏が作手に侵攻したときの話である。
*杉平城址
〔所在地〕 作手村大字杉平字登ケ城 (図37)
杉平と田代との間に連互する山脈の一峯(520m)の山上にある。巴川から200mに及ぶが、田代側からは50mしかない。山頂は意外に平坦で、今は若檜林で展望を欠き、下草も茂って城址の確認はできなかったが、地名からして城址であることはまちがいない。『三河二葉松』、『南設楽郡誌』、『旧作手村誌』のいずれにも載っていない城である。後人の研究を待つ。
*その他の古屋敷
以上のほか地侍の屋敷址が、『三河国二葉松』、『三河国古今城塁地理誌』等に出ているのでここに集録した。
(1) 北畑村古屋敷 兵藤新左衛門
(2) 川合村古屋敷 奥平伝九郎(「城塁地理誌」)
二ヶ所在之奥平伝九郎、次に阿知波七兵衛住(『二葉松』)
(3) 野郷村古屋敷 野郷兵蔵 美藤万五郎
(4) 相月村古屋敷 主不知
(5) 市場村刑部屋敷 奥平弥太郎(「城塁地理誌」)
(6) 同村砦 和田和泉守(「城塁地理志」)
(本項 ここまで)
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注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
注3)右図「作手村の城址・古石塔・寺院分布図」をクリックすると拡大表示します。
《参考》◇「地域の話題」から(リンク集)(2024/10/04)
2025年02月05日
立春朝搾り。 5-18 作手藩米蔵址 (作手村誌57)

仕事の都合でこれまでの酒屋で購入できないので、職場に近い酒屋にお願いしました。
立春朝搾りは、爽やかな香り、旨味がありました。辛口の味わいに、春を味わいました。
開運、無病息災…を願いながらいただきました。美味しゅうございました。
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 - 第二章 中世」-「第九節 作手の城址」の紹介です。
「歴史」について、これまでに『作手村誌』(昭和35年版)の記事を紹介しています。
項目立てを変えて述べられいる本版から、執筆当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 - 第二章 中世
第九節 作手の城址
(つづき)
*作手藩米蔵址
〔所在地〕 作手村大字大字清岳字倉屋敷 (図27) 〔面 積〕 490平方メートル
亀山城址に近い国道301号線と、県道新城・清岳線の分岐点に米蔵屋敷という地がある。農業構造改善事業によってその面積を失ったが、1960(昭和40)年ごろまでは、西方を除く三方に土塁をめぐらした一画があった。西方は道路に面するため、すでにかなり毀損されてはいたが、明らかにコの字を呈していた。現在は東方土塁の一部(23.5m)が残り、往時をしのばせる。塁高4m、褶2m、裏側は急崖となり農家の裏に達し、比高差9m、北方は排水溝で往時は空濠であったと思われる。南側は県道で2~5m低い。西側は国道で、里道から村道、県道から国道へと昇格する度に拡幅され、倉址はその都度減って、現在は東西70m、南北70mのうち、推定土塁敷を引くと内部面積は約490平方メートルとなる。

奥平信昌の四男忠明が、祖父家康の養子となり松平姓を冒し下総守に任官したのは1602(慶長7)年で、9月作手藩1万7,000石(1万5,000石とも)の領主となった。年齢18歳の青年領主が父祖の地に入り、関東移封以来12年荒廃にまかせた亀山城は、雨漏りがひどく直ぐには住めない。そこで一先ず甘泉寺を宿所とし、修理の成るを待ち城中に移ったと思われる。米蔵が城外に設けられたのはこのときで、関ヶ原に大敗した豊臣秀頼は、一大名に顚落し天下大乱のおそれはなくなっていたので、湿地の中に孤立する城中より、租米の収納に便利な道傍に米蔵を設置したのは賢明である。
忠明は家康の孫という毛並の良さに加え、資質も勝れていたので、1610(慶長15)年伊勢国亀山5万石となり本拠を伊勢に移すが、当地の領有関係に変化はなく、1615(天和元)年10万石の大阪城代となるまで13年間継続した。
(つづく)
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注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
注3)右図「作手村の城址・古石塔・寺院分布図」をクリックすると拡大表示します。
《参考》◇「地域の話題」から(リンク集)(2024/10/04)
タグ :作手村誌57
2025年02月03日
立春 5-16 小和田城址 (作手村誌57)

『春の気たつを以て也』(暦便覧)立春は旧冬と新春の境い目にあたり、この日から立夏の前日までが「春」です。
また、立春が“一年のはじまり”であり、この日を基準にして、いろいろな節目の日があります。暦で「○○日」などと呼ばれる日の基準で、「八十八夜」や「二百十日」などは、立春を起算日として88日目、210日目の日になっています。
2025年が1か月過ぎていますが、暦に合わせ、あなたの活動を立春の日に始めませんか。
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 - 第二章 中世」-「第九節 作手の城址」の紹介です。
「歴史」について、これまでに『作手村誌』(昭和35年版)の記事を紹介しています。
項目立てを変えて述べられいる本版から、執筆当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 - 第二章 中世
第九節 作手の城址
(つづき)
*大和田城址
〔所在地〕 作手村大字大和田字城山 (図40)
〔面 積〕 約2,160平方メートル
城山の中腹標高約400mに存在する山城で、一名段戸城という。ダンドという地は段戸山をはじめ奥三河の諸所にある地名で、段の所という意らしい。この城山も極めて峻阻な山であるが城址の所だけが平坦で、東西60m、南北36mあり、三段に削平されている。土塁・空濠の設備はないが周囲に粗末な石垣がある。耕地に乏しい谷底の村だけに、20年前までは出作地として畑作が行われたので、その際障害物とし片つけ築造されたかも知れない。防御施設としては余りに貧弱である。ただ一隅に集められた塁々たる石塊の山は、おそらく防禦用のものであろう。当時の攻城戦の戦傷をみると意外に石礫や投石によるものが多い。この急傾地をごうごうと落下してゆく石塊は想像するだけでも凄まじい。背後に山を負うため東方への展望を欠くが、他の三方は視界良好で、見代城・岩波城・獅子ケ森も視野の中にある。比高差300mという高所にありながら、水に事欠かないのはこの城の強味で、清洌な泉が城中にある。
城主は始めは菅沼源助、1562(永禄5)年から奥平六兵衛吉住が代った。この人は二代貞久の弟源之丞の曽孫である。1573(天正元)年8月の戦いに、見代・宇津木に敗れた武田の敗兵が立籠ったが、麓から焼立てられて四散したという。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
《参考》◇「地域の話題」から(リンク集)(2024/10/04)
