2023年02月28日
3-1.6 「奥平貞昌」 (作手村誌)

元旦に立てた「一年の計」は、着実に進んでいますか。
『作手村誌』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。
昨年の大河ドラマが鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。
『作手村誌』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。
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第二編 村の沿革と歴史
人物 奥平氏
奥 平 貞 昌
監物、六郎左衛門、八郎左衛門、薙髪して道閑と号す、第百二代後花園天皇の宝徳三年三月十日亀山城に生る、貞久の長男なり、産湯は須山村池ノ坊(善福寺の一坊なり)の井戸水を用いたりという。
第百四代後柏原天皇の永正三年八月駿河の今川氏親を離れて徳川氏に帰し更にまた今川氏親に従う、永正十一年三月氏親、遠江国引左郡三獄山を襲う。城主斯波義達城を捨てて奥山に走る、貞昌をして三獄山城に在番せしむ、氏親、作手本領以外遠江国河西の地三千貫を与う、領土益々拡がる。
第百五代後奈良天皇の享禄三年五月徳川清康(家康の祖父)織田の部将態谷備中守直盛を三河国宇利城に攻めんとし、東三河の諸領主に援助を求む、貞昌、世子貞勝を伴いて出征し、撃ちて直盛を走らす、直盛の領地を与えてその功を賞す。
貞昌四男二女あり、長は貞勝、次男久兵衛貞直に額田郡日近(土賀)郷を与えて名ノ内村に築かしめ族臣を以て遇す(一説日近の領主松平孫四郎の婿となりて遺領を継承すと)、三男次郎左衛門に額田郡豊富村の取川を、四男掃部貞行に田原沢を与う、長女松平康定へ、次女雨山の城主阿知波民部定基へ嫁す。北畑の領主兵藤太郎八の来属は貞昌の時代とも言う。貞昌初め嗣子なきを憂へ、見代の住人権田藤八郎重行を養う、六十三才にして貞勝の誕生に及び、重行自ら拝辞して臣下となるの説あり、未だその当否を知らず。第百五代後奈良天皇の天文四年四月二十日三獄山城に於て卒す、八十五才、法名一法道閑大禅定門、三獄山中に葬ると称するも所在不明、或は作手に改葬せしものならんか、室、山下荘右衛門の女、第百六代正親町天皇の永禄五年十二月十八日卒す、宝秀清珍禅定尼、墓所不明。
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で
注2)本誌の本文内で、小文字や2行表記等されているものを、( )で示している。
【掲載記事から】
◇「三代貞昌と三嶽山城」(続 つくで百話)(2019/12/14)
タグ :作手村誌
2023年02月27日
3-1.5 「奥平貞久」 (作手村誌)

『作手村誌』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。
昨年の大河ドラマが鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。
『作手村誌』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。
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第二編 村の沿革と歴史
人物 奥平氏
奥 平 貞 久
六郎左衛門、監物、後出羽守、叉川合出羽守の称あり。第百代後小松天皇の応永二年 三河国設楽郡作手に 生まる。(一説には父貞俊と共に上野国から来て初め川尻城に居り、第百二代後花図天皇の永享二年亀山城に於て父の名跡を継いだと)貞俊の長子なり。貞久の時代領土大いに拡がりたり。松平親長(徳川家康の祖父の祖父)に従属し、その後今川氏親(義元の父)に与力して戦功をたて、威望日に加わり、土民の帰する者多く遂に作手三十六ヶ村(市場、須山、北畑、木和田、野郷、相月、寺林、赤羽根、小林、弓木、草谷、鴨ヶ谷、手洗所、岩波、田原、川尻、和田、見代、川手、杉平、田代、長者平、千万町、塩瀬、嶋田、道貝津、川合、大和田、善夫、菅沼、黒瀬、御領、笠井島、小田、折立、栗島)及び額田郡、宝飯郡の一部を領有するに至った。
貞久七子あり、嫡は貞昌なり、次男弾正久勝を分地とし知行のうち四分の一を与えて、市場村石橋の館に居らしむ、三男但馬久正に額田郡夏山村を、四男主馬允に宝飯郡萩村を、五男兵庫介信丘に宝飯郡佐脇村を与えて族臣となす。六男喜八郎貞次は名倉村を領し、七男は助次郎定包と称す。佐脇の領主生田主計、作手郷北畑の領主兵藤太郎八共に来属し、設楽郡黒谷郷の領主黒谷和泉守重広を軍事の相談役に嘱す。
第百二代後花園天皇の文安五年霊夢によりて八幡宮を建立し、奥平御先祖貞俊公奉諡八幡宮と称し、末杜に若宮と山の神を祀り、右勧請の上修覆料として高八石三斗二升、山林、竹林共に寄附したと言えり。今の大字白鳥字川合の村社八幡宮はこれなりと伝う。第百三代後土御門天皇の文明七年七月四日亀山城に於て卒す、八十一才。(一説交明十八年六月二十六日卒去で八十二才ともいう。この説に従えば生まれた年とい違いを生じてくる)。法名太中道頓大禅定門、城外の地に葬る。室不詳。
亀山城の規模の川尻城に比して大なるは家運の発展に従い築きたるを以て固より当然なるべしと雖も或は後年(慶長七年)松平忠明(奥平信昌の四男)が祖先発祥の地として特に拝領せし所なれば、その際増築拡張したるものにあらんか、城地を離れ数町程、貞久の墳墓と称する清岳の畑中一段高き円形地上に一基の古石塔あり、その背後に聳立する数百年の一本檜は亭々として如何にも古塚を表徴するに相応しく、この口碑は「城外の地に葬る」の記録と合致して正に疑う可からざるが如し。
貞久の三男但馬久正、四男主馬允、五男兵庫介信丘ともに七族中に列せられたるに係らず、二男石橋弾正久勝の加わらざるは頗る奇異の感なくんばあらず、蓋し久勝固より列中にありしも、二代弾正不軌を図りしため抹殺して伝わらざるものならんか、或は弾正久勝は分地として惣知行高の四分の一を賜りたりと言えばその待遇は寧ろ族臣以上にして始めより七族中に列せざりしものならんか。
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で
注2)本誌の本文内で、小文字や2行表記等されているものを、( )で示している。
【掲載記事から】
◇「二代貞久と亀山城」(続 つくで百話)(2018/12/11)
タグ :作手村誌
2023年02月26日
『笑いの力、言葉の力』(渡邉文幸・著)

気候の変化に身体が疲れてたり、エネルギーが足らないのかも。
間もなく“春”、ウキウキ、わくわくと。
書架に並ぶ背表紙を見ながら、そこに「笑い」と「言葉」の文字を見て、その本を手に取りました。
副題に「井上ひさしのバトン」とあり、その“笑い”に興味をもって『笑いの力、言葉の力: 井上ひさしのバトンを受け継ぐ』(理論社・刊)を読みました。
出版社の図書紹介では、
「ひょっこりひょうたん島」「吉里吉里人」「父と暮らせば」などで知られる井上ひさしは、芝居、小説、随筆、コント集など多彩な創作活動を続け、多くの人に笑いと生きる力を与えました。その創作の核には、自身の生い立ちから自律に到る道のりを通して生涯考え続けた、言葉の力、一人ひとりの幸福、笑いの力への信頼がありました。とありました。
父親からのバトンを受け継ぐ思いで75年の生涯を駆けぬけた井上ひさしの作品をひもとき、次世代へ大事なメッセージを探ります。
本書は、井上ひさしさんの作品、歩み(記録)を紐解きながら、その“人”を語っています。楽しみにした、受け継がれた“新たな笑い”は見つかりませんでした。
筆者は、はじめにで、
戯曲、小説、随筆、コント、それに評論など多彩な創作活動を続けてきました。(略) とうとうと流れる大河は、広く、自在に変化します。と本書を著すねらいを述べています。
その作品を手がかりに、バックボーンをつくった幼児期から青年期の時代を中心にたどることによって、その考え方や理念、思想を探ろうと思います。いわば大河の源流、水源を訪ね、全体像に迫ろうというのです。
笑いに、
ユーモア[humor]、ギャグ[gag]、ウイット【wit】 、コメディー[comedy]…とあるなかで、井上ひさしさんが作り続けたものが「人間だけのほんものの武器=笑い」なのです。
ユーモア(humor)は、Human(ヒト)から生まれたようです。人間らしさの源にある“もの”を揺さぶるユーモアが、井上ひさしの作品があふれており、その“ほんものの笑い”の源流を教えてくれます。
むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに書くこと
まじめなことをだらしなく、だらしないことをまっすぐに、まっすぐなことをひかえめに、控えめなことをわくわくと、わくわくすることをさりげなく、さりげないことをはっきりと
井上ひさしさんの源流をめぐり、改めて作品を読み直してみませんか。
目次
はじめに
第一章 ぼくの原点
第二章 言葉とユートピア
第三章 戦争にみたもの
第四章 小松を離れて
第五章 物語づけ
第六章 笑いをつくる
第七章 信じて走れ
特別収録 井上ユリさんに聞く『素顔の井上ひさし』
年譜
おわりに
【関連】
◇井上ひさし公式サイト
◇井上ひさし(Wikipedia)
◇「吉里吉里忌」公式サイト
◇Kazuko Matt (@kazukomatt)(Instagram photos and videos)
【おまけ】
東日本大震災の後、話題になった釜石小学校校歌の作詞は、井上ひさしさんです。本書にも、そのことがでてきます。
改めて味わい、備忘録としてメモしておきます。
釜石小学校 校歌
作詞;井上 ひさし/作曲;宇野 誠一郎
いきいき生きる いきいき生きる
ひとりで立って まっすぐ生きる
困ったときは 目をあげて
星を目あてに まっすぐ生きる
息あるうちは いきいき生きる
はっきり話す はっきり話す
びくびくせずに はっきり話す
困ったときは あわてずに
人間について よく考える
考えたなら はっきり話す
しっかりつかむ しっかりつかむ
まことの知恵を しっかりつかむ
困ったときは 手を出して
ともだちの手を しっかりつかむ
手と手をつないで しっかり生きる
本書で、他にも校歌の作詞をしていることを知りました。
現在は、統合して新しい学校に変わっていますが、山形県川西町立川西第一中学校、川西第二中学校の校歌です。
川西第一中学校 校歌
作詞;井上 ひさし/作曲;宇野 誠一郎
空にひらけゆくわが学び舎に
雲なき大空今日も果てなし
励めや一中ただひたすらに
光あまねく身にあびて
めあては一つ人らしき人
空よりもこころの広きをめざして
花にひらけゆくわが学び舎に
名もなき花々今日もうるわし
習えや一中こころすなおに
誇りけだかく養いて
めあては一つ人らしき人
花よりもこころの清きをめざして
山にひらけゆくわが学び舎に
連なる山並み今日もたくまし
誓えや一中いざまろともに
からだきびしく攻めあげて
めあては一つ人らしき人
山よりもこころの強きをめざして
2023年02月25日
『東大生が日本を100人の島に例えたら 面白いほど経済がわかった!』(ムギタロー・著)

この本をAudibleで見て、面白そうとライブラリに入れました。
Audibleの朗読は心地よく聴け、小説は浸り込んで楽しめます。しかし、実用書などは言葉や用語が分からないことが、よくあります。また、何かをしながらの「ながら聴き」となるので、分からない言葉があると、作業や活動が止まってしまいます。
この本は経済の用語が出てきそうですし、ながら聴きの機会がないままでした。
図書館に寄ったとき、書架に『東大生が日本を100人の島に例えたら 面白いほど経済がわかった!』(サンクチュアリ出版・刊)がありました。多くのイラストが説明に添えられていますが、これはAudibleでは見られません。
読むかどうか分かりませんが、イラスト、図を見たいと思い、図書を借りました。
本書について、出版社は、
経済ってわかりにくい…。と紹介し、ユーモラスな動物たちの図解も、“誰でも分かる”ことの助けとなるようです。
なぜなら、難しい経済用語や謎の数字が出てくるから。話のスケールが大きすぎるから。自分の暮らしとの関係がよく見えないから。
この本は「日本がもしも100人の島だったら?」と例えることによって、難しい経済の仕組みを、超シンプルに理解していただくための本です。
さあ、100人の島とその住人たちと、一緒に経済の世界を楽しみましょう。
ユーモラスな動物たちの図解が入って、中高生から大人まで、誰でも「経済がわかる」内容になっています。
経済がわかると、世の中の流れが見えるようになります。と同時に、不思議と日頃の悩みが小さくなっていきます。
今回、図書を手にして、Audibleの朗読を倍速より少し速めて聴きました。
速い朗読では言葉が分かりにくいのですが、図書の文字を見ながらだと、内容が“よく分かる”気がしました。また、説明とイラストも、その速さで“分かり”ました。
実用書では、図書とAudibleを併用する“読書”も、よさそうです。
説明文にある通り「経済って何だか難しそう」、「経済って分かりにくい」と思って避けてきた方には、図版や分かりやすい例えで簡潔に説明されており、「難しくないぞ」と、すんなり読めて、よく分かるでしょう。
専門的な用語も出てきますが、説明があり、小学生でも楽しく読めるでしょう。
経済の動き、これからの経済、社会を考える“ベース”の一つとして、本書の経済を学んでみませんか。

○ ヒトは言葉によって、「役割分担」をし、「物資の分配」をし、「知識の継承」をしながら発展してきました。
○ (略) 新しい技術の研究など「島のみんなにとって大切だけど、なかなかお金にはなりにくい仕事」は、放っておくと誰もやらなくなってしまうので、公務員がやります。
○ ある物体が「お金」の役割を果たすためには3つの条件を満たす必要があります。
・みんなが価値を感じること(略)
・その価値がすぐに消えないこと(略)
・小さく分けられること(略)
○ 国の赤字は民間の黒字
○ 弱者かどうかなんて、平均からの差でしかないため、「社会的弱者」は絶対にいなくならないのです。
○ このように政府は、「『島の文明発展』と『島の平和』を達成するにはどうするか?」「お金のバランスを取るにはどうするか?」を考えながら、政策を決めています。
○ 専門分野を学んだ人材が、専門性を活かせない仕事に就くのは、日本にとって大きな損失でしょう。
○ ゆるゆると物価が上がっていると(インフレを起こしていると)、政府は「よしよし、いい調子だ」と思うのです。(略) 物価が下がっていると(デフレを起こしていると)政府は「ああ、悪い状態だ」と思うのです。
○ この本で紹介してきた内容は、MMT(Modern Monetary Theory=現代貨幣理論)と呼ばれる経済理論を参考にしています。
○ お金は「異なる価値も媒介できる超便利な時短アイテム」なのです。
○ 本当に、安心で、自由で、強気になれるのは、お金ではなく、「資源」や「技術」、「軍事力」をたくさん持っている島なのです。、
○ 現在、国際法にはなにも罰則が存在しません。ただの努力目標です。
○ どんな考え方の人でも「持続可能な経済システムにしよう」には賛成できるはずです。
CONTENTS
はじめに
ご注意「100人の島」という例えについて
CHAPTER 1 ケイザイ以前の話
CHAPTER 2 国家とお金
CHAPTER 3 国の役割と政府のお仕事
CHAPTER 4 景気と物価
CHAPTER 5 投機と債券
CHAPTER 6 貿易と為替
CHAPTER 7 課題と未来
おわりに
【関連】
◇ムギタロー@経済本を発売中!! (@mugitaro_comics)(Twitter)
◇井上智洋 (@tomo_monga)(Twitter)
◇望月慎(望月夜) (@motidukinoyoru)( Twitter)
タグ :読書
2023年02月24日
2-1.2 信玄の一夜(1) (昭和に生きる)

平日ですが、前回より、いろいろな場所で人が多く、賑わっていました。“制限が緩んだ”ことで、人々の行動が大きく変わっていることが、田舎で引き籠っている者に驚きでした。
故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。
渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“根”そして“幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。
本書のなかから、“その時”に読んで学んだ校長室通信を中心に紹介していきます。「考える」ことが、若い先生に見つかるといいなあと思います。
この項は、現代の教育へ続く「戦後教育史」を見ることができます。
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戦後教育史の片隅に生きる
青年教師時代
東郷東小学校の学校新聞二十六号(昭和二十九年三月)の一隅に、つぎのような文が載っている。
信玄の一夜
日本の社会科の方向づけのため文部省にあって指導要領の編纂に努力され、社会科の育成のために、現在名古屋大学に教鞭をとられる日本の教育学者 上田薫先生が本校の研究会のために、わざわざ前日おいでになられた。先生を信玄の宿にうかがい、先生にいろいろとお話をうかがう機会に恵まれたわたしは、そこで先生の苦悩の一端を窺い知ることができた。
社会科の解体、地歴の独立の声が巷間に広まり、社会科に対する無国籍性、無目的性、無責任性の批判はきびしい。しかし先生は「道徳、学力が低下しているといわれるが、わかっていることはそれでしかないのだ。本当の社会科とはなにか、根本から考えることの方が大切である」といわれ、さらに「現実の社会を理解し、社会の進展に貢献しうる実践的人間を育成するのがねらいであって、さらに社会科を前進させなくてはならない」と力説されるのである。
新教育の死命を制するともいうべき社会科改善の問題をめぐって、その創始に尽力なされた先生の胸中はいかほどであろうか。先生の考えていられることと現実のずれとの落差に先生の苦悩があるようである。今日における社会科の問題を説かれる先生の真摯な姿に接し、たしかに日本の教育を支える教育学者であると感じたのはわたしのみではなかろう。
初春の夜もふけた十一時すぎ、信玄の宿舎を出た私は、哲学専攻といわれる先生が、理路整然と話される社会科の本質論を想いかえしながら、あくまでも経験主義の教育に徹していかなくてはならないという考えに誤りはなく、どこまでも推進していかなくてはならないことを決意したのである。そのとき、ふと先生の著書にあった“社会科の運命は民主主義の運命である”ということばを思い出した。
上田薫先生をお招きして教育研究発表会をもつことにした。その前日に宿舎でいろいろお話をうかがい、自分の考えている方向がまちがいないことと、さらにそれを前進させることが必要だという励ましのことばをいただいたときの感銘の一端なのである。

「昭和二十六年の九月にわたしは名古屋大学に赴任した。引越した翌日に飯田線の沿線の浦川というところへいき、ひどい地震にあって名古屋はどうかななど思った記憶がある。その翌年か、それともまた次の年か、わたしはまた飯田線に乗る機会ができた。新城という町の小学校に招かれたからである。多分手紙をくれたのだろうと思うが、東郷東という農村部の学校の若い教師が、わたしにぜひ来てほしいと頼んだのである。
三上仙造氏の学校へいきはじめたのは文部省時代だから少し早いが、東郷東小学校へも毎年つづけていった。その若い教師がずっとそこにいつづけるあいだ、休みなくいった。……」
と書いてみえる。
先生から教えをうけるようになるきっかけとなった最初の“出会い”、それは昭和二十九年二月二十八日であった。わたしの教員生活の歩みにとってもっとも重要な、そしてもっとも大きな曲がり角ともなったのである。その“偉大なる師”とのめぐりあいは実に教員生活を始めてから七年目が終わろうとするときであった。
(つづく)
※ 社会科の初志とは、一般的には経験主義による問題解決学習の社会科の考え方といってよい。初志の本質は、まずなによりも人間尊重ということにある。人間をずたずたにしたものへの激しい抵抗以外に初志の精神はない。そしてそのことが教育の理念として、「学問観の変革」をあげている。この考え方に立って、昭和三十三年八月“社会科の初志をつらぬ会”が結成され、機関誌『考える子ども』が発刊される。********
注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で
注2)掲載しているイラストは、学年通信(1993・1994年度)用に教員が描いたもので、図書との関連はありません。
タグ :昭和に生きる
2023年02月23日
天皇誕生日。2-1.1 青年教師時代(1) (昭和に生きる)

故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。
渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“根”そして“幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。
本書のなかから、“その時”に読んで学んだ校長室通信を中心に紹介していきます。「考える」ことが、若い先生に見つかるといいなあと思います。
この項は、現代の教育へ続く「戦後教育史」を見ることができます。
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戦後教育史の片隅に生きる
教科書の「仏法僧」の教え方に疑問をもったわたしは、成長して学校の先生を職業に選んだ。教える立場になったとき、当時の担任の先生の苦しい胸の内がなんだかわかるようになった。
そして、“ひとつの想い”をふくらめていくことになった──。
青年教師時代
偉大なる師との出会い──東郷東小学校
昭和二十二年、新制中学校の発足と同時に長篠中学校へ赴任した。三年間で東陽中学校へ転出したが、わずか一年で、昭和二十六年四月、東郷東小学校へ転任することになった。建設そして創設途上の中学校生活にわずか四年で別れをつげて待望の小学校の教師になった。かねて抱懐していた“生活教育の実現”のため社会科教育を正面にすえて挑もうと決意をしたのであるが、そこには当時、東の校長であった田中清一先生の助言があったことを忘れることはできない。田中校長は新進気鋭の若手のヤリ手という評判のほまれ高い名校長であった。わずか一年二か月お世話になっただけで、先生は県教委の学校指導課の指導主事にご栄転になられてしまった。その田中先生が赴任早々のわたしをとらえて、つぎのようにおっしやられた。
「よくみるがよい。この新城地方には、国語では井上、理科では中島というように、ずばぬけた教員が各教科にはいる。しかし、お前がしようとしている社会科にだれがいるかね。歴史ならだれ、地理ならだれといっても社会科といえばいない。それは社会科の歴史が浅いからといってもよかろう。お前は一年で学校のなかで認められ、五年で新城地方で頭角をあらわすようにせよ、おれはお前ならできると思う。

社会科教育の理論の勉強とともに、真剣に子どもたちと社会科学習にとりくんだ。問題解決学習の実践に体当リの日々が続いた。東小学校へ移って三年目、わたしは、“人生の偉大な師”とめぐり会う幸運に恵まれるのであった。それは、わたしの教員生活にあってきわだった曲がり角であり、しかも“生涯最良の日”であったことは、たしかなことである。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で
注2)掲載しているイラストは、学年通信(1993・1994年度)用に教員が描いたもので、図書との関連はありません。
【おまけ;今日の募金】
買い物で、カードや電子マネー、アプリを利用すると「ポイント・マイル」が貯まります。
次の利用でポイントを使えるものもありますが、確認して手続きを必要とするものもあります。
今日、そうしたポイントを確認し、「つかう」先から「トルコ南東部を震源とする地震被害への募金」へ寄付しました。わずかではありますが、役に立てていただければ嬉しいです。

2023年02月22日
「いい話の図書館」。 『ひかりの魔女』(山本甲士・著)

最終号の『本に恋する店主の呟き[壁]新聞』で、
本と道連れの人生と述べています。
「いい話の図書館」は、これが最後の原稿となりました。2018年の暮れに、作家の志賀内泰弘さんから、「小林さんがいいと思う本を全国に向けて紹介する頒布会をしたらどう?」と提案されました。(略)
とにかく「やってみよう!」と、2019年4月から無謀にも企画はスタートしました。小説、エッセイ、ドキュメント、絵本、単行本から新書、文庫など、ジャンルが多岐にわたるように心掛けました。(略)
人は、食べたものと読んだものでできているのです。これから皆さまが本と道連れの人生でありますように、心からの感謝を込めて、本当にありがとうございました。
1冊目は『スタートライン』(2019/05/22)でした。
最終の頒布も喜多川泰氏の本が選ばれ、以前に紹介した『よくがんばりました。』でした。
「いい話の図書館」で、素敵な本と出合わせていただきました。4年間、ありがとうございました。
「いい話の図書館」で48冊目の図書『ひかりの魔女』(双葉文庫)を読みました。
本に恋する小林店長は、「本に恋する店主の呟き新聞」に
80歳を過ぎた祖母が、ある日わが家にやってきた。浪人生の孫息子の目線で見るおばあちゃんは、関わってきた人たちを幸せにしてきたらしい。幸せに生きるとは、豊かに生きるとは、便利で早ければそれでいいのか、引き込まれて読んでいました。とメッセージを載せています。
表紙に割烹着(?)姿の“笑顔のお婆さん”が描かれ、この人が“わが家”にやって来た祖母で、人を幸せにする“魔女”のようです。
出版社の図書紹介には、
浪人生の真崎光一は一日中家にいる。そこへ祖母が同居することになった。とありました。
小柄で温厚で普通のおばあちゃん……と思ったらなんだかめちゃめちゃ多くの人に慕われてるし!?
周囲の問題解決してるし! たちまち家庭の状況も好転してるし!! うちのばあちゃん、一体何者!?
ばあちゃんにひっついていた光一だけが目にした奇跡の数々。
これぞ痛快、スーパーおばあちゃん小説!
光一がお婆ちゃんと初めて会ったとき、その“魔法”を目にします。
「あれ、おばあちゃん、さっきは腰が曲がってるみたいに見えたけど」このときの光一は、年寄りの狡猾な知恵かと思いましたが、その後祖母と一緒に行動するうちに、“優しいウソ”であることを知り、その“魔法の力”に気づきます。
光一がそう言うと、ばあちゃんはそれまでの笑顔とはやや異なった。にたっとする表情になった。
「荷物を運ぶとき、辛そうにしていると、親切な人が助けてくれるから」
年寄りが生きてゆく上での知恵? 親切にした側も気分がいいし、誰も損はしないわけだけど。
“優しいウソ”であることを知り、その“魔法の力”に気づきます。
85歳のおばあちゃんとの暮らしが始まり、ボケるんじゃないかと心配していた家族でしたが、足腰も丈夫で、自分のことは自分でするなど、元気です。
ただし、外出するときには、光一がお供します。
書道の先生をしていたお婆ちゃんは、元教え子6人に会いに行きます。そこで出会う元教え子達は、それぞれ活躍しています。その誰もが、おばあちゃんを慕い、「自分が一番大切にされた。」と思っていることに、光一は戸惑います。
おばあちゃんは、何者なのか。トラブルを抱え、困難の地にあった真崎家は、おばあちゃんが同居を始めて変わっていきます。
部屋で“変なポーズ”をしてことがあるけど、教祖なのか。
炭火と土鍋でていねいに炊いたご飯、佃煮、漬物、イワシのぬかみそ炊き…。
おばあちゃん手作りのごはんが、“魔法”の力を持っているようです。
こんなおばあちゃんがいたら…。
読書メモより
○ やっぱり、年寄りはカブトムシ並みに朝が早い。
○ ばあちゃんが「では、いただきます」と両手を合わせたので、光一もそれに倣った。/(略) ばあちゃんが目を閉じて、数秒間、いかにも心を込めて手を合わせている所作は、無形文化財みたいに思えた。
○ ダイニングに行くと、海苔を巻いた三角のおにぎりが二つ、皿に載っていた。横には小魚の甘露煮とキュウリの漬物が添えてあり、湯飲みと急須も置いてあった。
○ ばあちゃんが教えてくれた書道は、完成した作品の出来映えよりも、書いているときの姿勢や心の持ちようを重視したものだったらしい。
○ 「用美道というのは、機能性があり、それが美しさを備えており、正しい生き方につながっていなければならない、ということです」と白壁館長は続けた。
○ ばあちゃんは他人をコントロールするのが上手い、したたかな人間なのだろうと思っていたが、それは半分当たりで半分外れらしいと思った。
○ 光一はさらに、こんな仮説も立ててみた。
○ それは、園部さんが子供の頃に、ばあちゃんから何度もやってもらって覚えた、優しいうそでもあった。
【関連】
◇山本甲士/もの書き生活
【関連;「いい話の図書館」】
☆これまでに紹介した「いい話の図書館」の本
◇『スタートライン』(喜多川泰・著)。「いい話の小さな図書館」。(2019/05/22 集団「Emication」)
◇『よくがんばりました。』(喜多川泰・著)(2022/12/16 集団「Emication」)
◇小林由美子(Facebook)
◇志賀内 泰弘(Facebook)
2023年02月21日
1-8 少年の日の“ひがみ”(4) (昭和に生きる)

春に向かっているとはいえ、日差し、気温の変化に体調が乱れそうです。
感染対策とともに気候の変化に合わせた過ごし方をしましょう。
資料のなかに、故・冨田勲氏のサインの写真を見つけました。
冨田氏が、2006年に鳳来寺山で行ったコンサートを行いました。ここで演奏された『仏法僧に捧げるシンフォニー』に、鳳来寺小学校と庭野小学校の子供達が参加しました。
その練習で小学校を訪れたときのもので、その時の写真とともに写していました。
この時の歌は、翌年にNHK「みんなのうた」で『鳳来寺山のブッポウソウ』として放送されました。
あらためて、子供達の歌声を聴きました。
◇『鳳来寺山のブッポウソウ』(冨田勲)(YouTube)
故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。
渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“根”そして“幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。
本書のなかから、“その時”に読んで学んだ校長室通信を中心に紹介していきます。「考える」ことが、若い先生に見つかるといいなあと思います。
この項は、「昭和62年『考える』116号」から構成されています。
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昭和に生きる
少年の日の“ひがみ”
青春時代(2)
(つづき) 二十年四月になると、同級生のところへ続々と召集令状が届けられるようになった。東海道線幸田駅頭には「花も蕾の若桜、五尺のいのちひっさげて……」の歌がこだましていた。だんだんと同級生が少なくなってくると、どうしてオレのところへはこないのかなあとあせる気持ちが自分にあることがわかりだした。ここでも、みんなに遅れないように早く兵隊にいきたい、トラ年のものはよいなという気持ちになる。しかし心の片隅ではちょっとでも遅くくればよいがという気持ちがあったことはたしかである。そこでイライラする自分をどうすることもできなくなってくる。
世界の状勢は、昭和二十年四月一日には米軍が沖繩本島に上陸をした。日本軍は捨て身の戦法で戦ったが、戦運われに利あらず、六月下旬に最高司令官牛島中将の自決によって、組織的な沖繩戦は終わった。一方、本土の空襲は六月から七月にかけて中小都市が攻撃の目標にされ、被災都市は百以上に及び、日本列島は文字通り焦土と化していった。
トラ年のものは、ほぽ八割が入隊し、ウサギ年はわずか二割というちがいがでていたのであるが、わたしはついに行くことはなく残留というかたちであった。このわずかなちがいが兵隊にいくかいかないかのちがいになり、それが一~二年のちがいによっては外地にいくかいかないか、生死のわかれ目になるという妙な運命にもあわされたのである。
入隊したものもわずか数か月の軍隊生活を送ったのみで、昭和二十年八月十五日の終戦を迎え、命ながらえて学校へ帰ってきた。屈辱感、解放感、虚脱感、自暴自棄──国民それぞれの立場に応じたさまざまな感情が国内に渦巻いた。敗戦後の貧しい生活のなかで、わたしたちはふたたび学校生活を送ることとなるのである。

むろん、わたしは、つねに生まれ月や年齢によるちがいを気にしないし忘れてもいる。しかし、個人的な体験を主とした“昭和史”を、考えようとするとたいしたこともなさそうなこの問題が、がぜんウエイトをまして図体を大きくしてくるのはどうすることもできないのである。
たしかに戦争や敗戦が大きな“共通体験”となっているというのは正しいことだと思う。けれども一つ一つをとりあげて話し合おうとすると、話がまったくかみ合わないことがある。いったいなにが共通体験かと思うのである。わたしが個人的に自分の少年・青年時代の不幸を熱心にふりかえればふりかえるほど“共通体験”の共通項からはずれて、なにか特殊な偏見にみちた自分個人のグチをくどくどと語ることに堕してしまうにちがいない。そこに個人史による昭和史のむつかしさがあるといえようか。
“戦中派”に属するわたしが、やや個人的なグチをならべたというところである。しかし、“戦中派”の人のものの考えの根底に、青春時代の痕跡が色濃く投影されていることだけはたしかなことであろう。
(昭和六十二年「考える」一一六号)
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注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で
注2)掲載しているイラストは、学年通信(1993・1994年度)用に教員が描いたもので、図書との関連はありません。
【関連】
◇『鳳来寺山のブッポウソウ』(冨田勲)(YouTube)
◇追悼〈冨田氏〉(2016/05/09 集団「Emication」)
タグ :昭和に生きる
2023年02月20日
1-7 少年の日の“ひがみ”(3) (昭和に生きる)

気温が上がり暖かくなったところも多かったようですが、当地は寒かった。
故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。
渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“根”そして“幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。
本書のなかから、“その時”に読んで学んだ校長室通信を中心に紹介していきます。「考える」ことが、若い先生に見つかるといいなあと思います。
この項は、「昭和62年『考える』116号」から構成されています。
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昭和に生きる
少年の日の“ひがみ”
青春時代
青春時代は、太平洋戦争のまっ只中にあった。教職を志して師範学校に学んだのであるが、あの大正・昭和元年生まれと、昭和二年の早生まれとのちがいは、徴兵検査、入隊といったときにも頭をもたげてきた。
昭和十八年九月、全国の大学における法文科学生の徴兵延期が認められなくなって、十二月一日には、第一回の学徒出陣で三万五千人の学生が兵営に送りこまれた。師範学校の学生は、この年はまだよかったが、翌年には徴兵延期が認められなくなった。
したがって学び舎は、そのまま兵営につながることになる。流れてくるものはすべてのみこんでしまいそうな暗い不気昧な洞窟がぽっかりと口を開けて待っているという様相になってきた。
その洞窟の前に立たされてみると、戦争に勝つということや負けるということよりも、まずは避けがたい死ということがつねにまつわりついて、わたしたちを苦しめていた。だれもが何年か先の自分はどうかと考えるよゆうなどあろうはずがなかった。それよりも、わたしたちには国家の運命とか、勝利のために身命を投げうつことのみが、神州護持の旗じるしのもとに要求されていたのである。そのような要求に無条件で応ずることは、社会の激しい流れにそのまま身をゆだねるということで、それはかんたんなことだと思い、だれもがそうなるんだという気易さも手伝って、それなりに感動的なことでさえあった。しかしながら、それはそうなんだが、その反面、どうかして自分だけはその枠外においてもらえないものかという思いが、心の奥底にあることはどうしようもないことである。妄想にかられながら、ときにハッとして自分にかえったことがしばしばであった。死とか生とかをぎりぎり自分に引きよせてみるとき、どうしても避けて通ることのできない問題点と思うのだが、なにかやましい思いにかられ、一種悲痛な思いがともなうのは、どうしようもないことである。けれどもそれらもしょせんは運命の瞬間が刻々と迫っているのだ、ということを思い出すきっかけになるにすぎなかった。

(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で
注2)掲載しているイラストは、学年通信(1993・1994年度)用に教員が描いたもので、図書との関連はありません。
【おまけ】
◇国連UNHCR協会
◇UNHCR - The UN Refugee Agency

【気象情報】
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◇日本気象協会 tenki.jp【公式】 / 天気・地震・台風 |
◇ウェザーニュース - 天気予報(台風・地震情報・雨雲レーダー) |
◇Yahoo!天気・災害 - 天気予報 / 防災情報 |
◇気象庁 最新の気象データ |
タグ :昭和に生きる
2023年02月19日
雨水。 『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』(眞邊明人・著)

朝から暦に合わせたように雨の降る日でした。
図書館の書架に、女性と武将がにらみ合い、その真ん中に「彼女・関ヶ原・戦」の文字が目立つ表紙の厚い(493ページ)本がありました。
以前読んだ『もしも徳川家康が…』を思い出しました。
見ると“ビジネス小説”であり、著者も同じです。続編のようです。
貸出期間中に読み切れるか不安ですが、『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら 』(サンマーク出版・刊)を手にしました。
本を手にして裏返すと、そこは文字で埋め尽くされ賑やかです。
経営不振に陥った名門ゲーム企業の命運を握る極秘プロジェクト、それは触覚や嗅覚までもが再現されたメタパース空間行う関ヶ原の戦いだった。歴史もゲームも詳しくない主人公みやびは、その開発中の超絶リアルなゲームのテストプレイを任命され、史実ではあっさり敗れた西軍を勝たせるというミッションを担うことに。AIが搭載された武将をZOPA・DESC・OODAなどの最新ビジネススキルで動かし、弾丸や矢が飛び交う戦場で兵を指揮しながらシナリオを進め、ゲームのクオリティ向上に貢献する。しかし現実世界ではゲームの開発が遅れ、リストラや社内での権力争い、合併話など次々と困難に見舞われてしまい、メタパース空間の関ヶ原では圧倒的に不利な状況に……。果たして、みやびは西軍を勝利させ、業績不振の会社を救えるのか。そして日本はメタバースで世界を牽引する存在となり“失われた30年”″を取り戻せるのか。日本史上屈指の武将にピジネススキルで挑む、新感覚エンターテイメント!前作は、「世界初のAIと最新ホログラム技術」で歴史上の偉人たちを復活させて“希望の世界”を描いていました。
さぁ、歴史をひっくり返せ。
本作は、「メタパース空間」で行う“ゲームの世界”を描きます。そのメタバース空間は“触覚”や“嗅覚”も再現された世界(空間)です。
メタバース空間で“楽しむゲーム”の舞台は「関ヶ原の戦い」です。そこに、関ヶ原の戦いに関わった“武将”として参加します。武将として歴史を辿る(体験する)のではなく、ビジネススキルを活かして戦略をねり、新たな戦に“挑んで(創って)”いくのです。
さらに、そのメタバース空間へ参加する技法として“侵襲式”を…。
ビジネス小説として、話のなかに ZOPA や DESC などのビジネススキルが登場します。初めて聞く用語やスキルですが、話で“具体場面”を知ることができます。さらに、スキルの解説が載っており、ビジネススキルに疎い者でも話についていけました。(理解までは…)
グローリーゲームス社の創業者 司馬山凌 が目指した社会をプロジェクトが実現できるのか。
「先代は、ご自身の病状が重いことを悟ってから、未来のグローリーゲームスの柱となる極秘プロジェクトを開始されていた。それがグローリープロジェクトだ。ゲームが単なる娯楽ではなく、社会に欠かせないものになるための壮大な計画だ」

物語の現場からQUEST(戦・闘い)へ、そして次へと、展開にわくわくし、厚い(493ページ)本も気になりません。
歴史エンターテインメント小説の描く“戦い”に学び、真似、未来(あす)を楽しみましょう。いかがですか。
読書メモより(ネタバレ避けて)
○ ブレイン・マシン・インターフェイスは脳とコンピューターを繋ぐ技術だ」
○ 「司馬山さんは、先天的な障害のある人や事故や病気などで障害を負った人が、ゲームという世界を通して、障害を気にせず誰とでも交流できるようにしたいと考えていた。それを現実にするために立ち上げたのがグローリープロジェクトだ」
○ 「(略) 多々良の言葉に、司馬山のような心を鷲掴みにされる表現はないが、仕事に対する目的とその背景を明確に伝えることで意識を確実に前向きにさせる。(略)」
○ 「四箱思考」 輝元を西軍に引き入れるには (略)
○ 軍師:戦闘力1 実行力3 作戦立案力1 交渉力3 統率力1 人質力1
○ 徳川家康:戦闘力5 実行力5 作戦立案力4 交渉力4 統率力5 人質力4
○ 「ここからはおまえたちが初めて合戦を経験する。将来的な商品化のことも考え、残酷な描写は取り入れていない。(略) それ以外はかなりつくり込んでいるから期待してくれ。まずは馬で前線に出てみろ」
○ みやびははっきりと言った。自分のなかで不思議な強さを感じた。それは自分の成長なのかもしれない。
○ 準備が整った時点で時間は早送りにされた。
「ここからは最終決戦となる。もう後戻りはできないし、セーブはできない。エンドまでだ。健闘を祈る」
○ 「太閤殿下がいけませぬな。かのお人は、すべての大名に夢を与えてしまわれた」
○ 「天下とは、天が定めた者に与えられた使命である。願い取れるものではなく、重い荷を背負う覚悟のある者に授けられるものである」
「重い荷とはなんですか?」
○ 自分で自分の未来を決められない人がいる。そのことを、みやびはゲームで思い知った。影花や佐助、島左近や淀など、あのゲームのキャラクターは皆、己の周りの運命に翻弄され生きていた。(略)
現実社会でも健太郎のように、その自由を剥奪された者もいる。それを思えば(略)
目次
プロローグ
1 グローリープロジェクト ──ミッションが人を動かす
2 テストプレイ始動 ──合意可能領域を探れ
QUEST 1 軍議に参加せよ
QUEST 2 伏見城攻略
3 合併計画 ──仮説と実行を繰り返せ
QUEST 3 岐阜城防衛戦
QUEST 4 木曽川の戦いを制せよ
4 内通者 ──相手の立場で思考せよ
QUEST 5 淀殿を説得せよ
5 ラストチャンス ──速度が勝機を生み出す
LASTQUEST 関ヶ原の合戦
終章 旅立ち ──自分という物語を紡げ
【関連】
◇『もしも徳川家康が総理大臣になったら』(眞邊明人・著)(2021/06/20 集団「Emication」)