2019年12月14日

忠臣蔵。「三代貞昌と三嶽山城」(続 つくで百話)

忠臣蔵1214。 天気の良い日でしたが,今日も“冷たい風”が音をたてて吹いていました。


 元禄15年12月14日仇討ち事件がありました。
 前年3月14日江戸城内松の廊下で,赤穂藩主浅野内匠頭が吉良上野介に突然斬りかかった「松の廊下事件」が発端となり,その一連の出来事が『忠臣蔵』として伝わっています。

 今日,『忠臣蔵』の話題はでましたか?



 昨日12月13日は「正月事始め」の日とされています。江戸時代の宣明暦が由来と言われ,その後の改暦,旧暦を経て,現在の暦でも「12月13日」を,正月を迎える準備を始める日としています。

 年神様を迎える準備を始める日で,門松の材料や雑煮を炊くための薪など,正月に必要な木々を山へ取りに行ったそうです。
 暦通りはでき難く,土曜日の今日に“事始め”をしたご家庭もあるかもしれません。
 みなさんのご家庭の「正月事始め」は?



 『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語(その二)」からです。
********
    作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)その二
          三代貞昌と三嶽山城

 貞昌は貞久の長男で,九八郎,監物,六郎左衛門,八郎左衛門と称し,剃髪してからは道閑と号しました。宝徳三年(一四五一)城中にて誕生,産湯は須山村善福寺の塔頭池の坊の井水を用いたといいます。文明七年(一四七五)二十五才のとき家を嗣ぎましたが,永正三年八月に西三河に漸く大を成した松平氏と今川氏との間に衝突が起こりました。貞昌は田峯・長篠の菅沼氏とともに,三河に侵入した今川氏親の客将伊勢長氏(北条早雲)の麾下に入りましたが,今川勢は戦意乏しく戦敗れて退きました。一方勝った松平氏もその後一族の内紛がつづき,おかげでこの辺りは小康が続きました。永承十一年(一五一四)三月になると,今川氏親の命により遠江国守護斯波義達の守る三嶽山城を攻略し,爾後天文四年四月十一日世寿八十五才三嶽山城に歿するまで,二十一年間在番しました。法名一法道閑大禅定門。
 三嶽山城は遠江国引佐郡井伊谷にある,海抜四四七メートルの城山の山上にあります。浜名湖から東北へ約一六キロ,山の中腹に三嶽部落があり,更に上ること六〇〇メートルで三嶽神社に達します。ここは城の出丸の址で数段の削平地が認められます。更に上ること三六〇メートルで山上に達します。山は三峯に分れ,中央最高峯に一の城,西の峯に二の城があり,何れも頂上に本丸を置き,帯郭や腰部を配し,空濠を穿ち,或は天然の岩を以って要害としています。ここは南北朝時代宗良親王の拠り給うた遺跡で,それを更に修築したものでしょう。
 三嶽城在番を命ぜられた貞昌は,功によって遠江国河西の地三千貫を新に所領に加え,三河の旧領と併せ名実共に大名となりました。
 この時の証文として「藩史」は
   遠江国河西所々之事
一所浜松庄内方    一所浜松庄内本寺方
一所刑郡部       一所愛宕
一所崩口        一所早田
一所高橋        一所堀江部内佐馬聞村
一所和宇村
右為守護使不入取宛行也但於所用以直使可相届之状如件
   永正二年二月五日    氏親書判
        奥平八郎左衛門入道殼
 同年三月北条氏綱よりの証文
 遠州本意之上於彼国五百貫之地可進置侯然は井伊御談合早々御行肝要委細使者可申侯恐々謹言
   三月二十九日   北条氏康書判
       奥平九七郎殿
              御宿所
 伊勢長氏の三河侵入が永正三年,三嶽攻略が永正十一年で,その行賞としてでは年号があいませんが,ともかく掲げておきます。貞昌の戦功としては享禄三年(一五三〇)五月の八名郡宇利城攻めがあります。松平清康(家康祖父)の乞に応じ,東三河の諸将とともに織田方の将熊谷備中守直盛を討ち,これを奔らせました。貞昌も四男二女という子福者で,長男貞勝は家を嗣ぎ,二男貞直は額田郡日近(土賀)郷を与えて名の内村に城を築かしめて族臣の列に加え,三男次郎左衛門は額田郡取川を,四男貞行には同郡田原沢を与えました。二女はそれぞれ松平康定,雨山の城主阿知波民部定基へ嫁し,戦国武将としては幸福な生涯を送った人です。
 奥平氏は不思議と晩年になって子を生すようです。貞昌は六十三歳で始めて長子貞勝誕生というのですから,いかにも超スローモーションです。さすがに彼はもう子はないと諦め,見代村の住人権田八郎重行を養子としたのですが,後に実子誕生をみると,後日紛糾の起らんことを察し,利ロ者の重行は自ら拝辞して臣下の列に戻ったといいます。日本人の平均寿命が,今日のようにのびたのは最近二十年のことで,戦前は四十三才,戦国時代ともなれば三十代だといいます。短命の多い武者の家で,奥平氏のように歴代天寿を全うしたのは稀有の家系といえましょう。
********

注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で

注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で



【おまけ】
  ◇映画『決算!忠臣蔵』(@chushingura_mv)(Twitter)
  ◇イマドキの小学生は「忠臣蔵」を知らない… 当たり前が通じない「嘆き」のツイートが話題(京都新聞)
  ◇吉良上野介公を巡る旅(西尾観光)



同じカテゴリー(作手)の記事画像
4-11 子供の遊びと植物(7) (作手村誌57)
八十八夜。 4-10 子供の遊びと植物(6) (作手村誌57)
4-9 子供の遊びと植物(5) (作手村誌57)
消滅可能性自治体…。 4-8 子供の遊びと植物(4) (作手村誌57)
4-7 子供の遊びと植物(3) (作手村誌57) 「臨時情報」
解散…。 4-6 子供の遊びと植物(2) (作手村誌57)
同じカテゴリー(作手)の記事
 4-11 子供の遊びと植物(7) (作手村誌57) (2024-05-02 17:00)
 八十八夜。 4-10 子供の遊びと植物(6) (作手村誌57) (2024-05-01 17:00)
 4-9 子供の遊びと植物(5) (作手村誌57) (2024-04-26 17:00)
 消滅可能性自治体…。 4-8 子供の遊びと植物(4) (作手村誌57) (2024-04-25 17:00)
 4-7 子供の遊びと植物(3) (作手村誌57) 「臨時情報」 (2024-04-19 17:00)
 解散…。 4-6 子供の遊びと植物(2) (作手村誌57) (2024-04-18 17:00)

Posted by ガク爺 at 17:00│Comments(0)作手風俗・歴史
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。