2021年06月30日

打合せ。 『2020年6月30日にまたここで会おう』(瀧本哲史・著)

花0630。 朝,雨雲に覆われた空でした。ところによって強い雨が降っていたようですが,当地は降っていませんでした。
 昼が近くなって激しく雨が降ったり,小降りになったり,断続的に雨が降り続けました。
 屋外の予定は,中止や延期になってしまいました。梅雨の時期はしかたないことですが,残念。



 午後,9月の「新城合宿授業研究会」の打合せに同席しました。 新城合宿は,愛知教育大学教職大学院(数学コース)の院生が授業研究を行い,検討会で学びます。
 昨年度は,新型コロナ禍で中止されましたが,今年度は作手中学校作手小学校を会場に実施の予定です。
 よい学びの機会になるよう,打合せを行いました。
 よろしくお願いします



 昨年,2019年8月10日に47歳の若さで亡くなられた瀧本氏の本が話題になっており,『僕は君たちに武器を配りたい』(講談社・刊)を読みました。

 昨年話題になり,記事でも紹介した『2020年6月30日にまたここで会おう 瀧本哲史伝説の東大講義 (星海社新書)です。講演の最後に「再結集」を呼びかけた一年後での紹介です。

 この本は,2012年6月30日行われた瀧本氏の講義をまとめたものです。“伝説の東大講義”と呼ばれる2時間がライブ感をもって読み進められます。
 10代,20代の若者が参加した講演であり,ぜひ"若者に読んで欲しい”内容です。

 瀧本氏の言葉に考えさせられ立ち止まるかもしれませんが,途中の休憩まで一気に読むと,残りを続けたくなるでしょう。
 すべてが肯定できる言葉でないかもしれませんが,それを受け入れ,考えることが大切です。

 瀧本氏が,若者に向けて飛ばす「」に,あなたは何を学び,どう行動し,どのように生きていくのか。
 未来のある若者,気持ちの若者,みなさんにお薦めです。


 檄の終わりにある『第○檄で手に入れた「武器」』より
○ 奴隷でも,猿でもなく,「人間」になろう。
○ 本を読んで終わり,人の話を聞いて終わりでなく,行動せよ!
○ 「正解」なんでものはない。
○ 自分の人生は,自分で考えて,自分で決める
○ そのための「思考の枠組み」として,リベラルアーツがある。
○ 自部自身の拠りどころとするために,学べ!
○ まずは「言葉マニア」になろう。
○ パラダイムシフトとは,「世代交代」である。
○ 君と君たちが正しい選択を続ければ,いつか必ず世界は変わる!
○ 自分の仮説を,試せ!
○ 見込みのある人を,支援せよ!
○ 仲間を,探せ!
○ 目的のために,つながれ!

   目次

第一檄 人のふりした猿にはなるな
第二檄 最重要の学問は「言葉」である
第三檄 世界を変える「学派」をつくれ
第四檄 交渉は「情報戦」
第五檄 人生は「3勝97敗」のゲームだ
第六檄 よき航海をゆけ
あとがきにかえて
瀧本哲史全著作

【関連】
  ◇瀧本哲史bot (@ttakimoto)(Twitter)  
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2021年06月29日

2.(8-3) 明治の初めの作手 (わたしたちの村)

蛙0629。 朝,雨が降っており,ワイパーを動かして出かけました。
 日中,雨が上がり青空に夏の雲が目立ってきました。気温が上がり暑い日になりました。



 郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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    (八) 明治の初めの作手

   3 文明開化のころ
 明治になると,日本は進んだ外国の文化を取り入れて,外国に負けない国になろうとしました。
 作手にも,1874(明治7)年に,高里郵便局のもとになった長者平郵便取扱所ができ,続いて守義郵便局のもとになった御領郵便取扱所(明治9年)もつくられました。
 しかし,「文明開化」は,東京などの大都会のことで,山の村である作手の人びとのくらし方や考え方は,江戸時代とあまり変わりませんでした。
寺子屋0629。
   4 小学校ができるまで
 明治になって,小学校ができるまで,寺子屋へかよって,文字やそろばんを習う子どもがありました。作手にあった寺子屋は上の表のどおりですが,どんなようすであったか,くわしいことはわかっていません。( )の中の年号は,その寺子屋ができたときを表します。
 寺子屋は,お寺でおしょうさんが開くことが多かったのですが,農民で寺子屋の先生になった人もいました。
 明治になってからできた寺子屋もたくさんあって,上の表のとおりです。また,あまり長く続かなかったものも多く,なかには,2~3年でやめてしまったものもあります。
 けれども,小学校のもとになった寺子屋があり,また,小学校ができてからも,寺子屋で勉強する人もあって,寺子屋は大事な役目をはたしていたことがわかります。
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 注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で
 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
 注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。  


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2021年06月28日

2.(8-2) 明治の初めの作手 (わたしたちの村)

花0628。 曇りの一日でした。



 郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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    (八) 明治の初めの作手

   2 村の合併
 1878(明治11)年に,郡と町や村についてのきまりができ,江戸時代から続いてきた小さな村がいくつか合わさって,大きな村や町になりました。
 作手では,それまであった34の村が,17の村になりました。どのような村ができたかは,下の表を見てください。
作手村0628。
 また,このとき,大区とか小区というきまりがなくなり,第13大区であった設楽郡は,南設楽郡と北設楽郡に分かれました。
 このとき,新しくできた17の村に戸長をおき,戸長役場がつくられました。戸長になった人の家を,戸長役場にし,「○○村戸長役場」というかんばんをかけました。これが,村役場の始まりです。
 1889(明治22)年に,市町村についてのきまりができ,17の村は9つになりました。そして,戸長をやめて村長にしました。役場0628。
 それまでの戸長役場は村役場になり,作手では右の表のように3つの村役場ができました。
 明治のはじめの村の名前は,地区の名前として,明治11年にできた村の名前は,大字の名前として,今も使われています。
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 注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で
 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
 注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。  


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2021年06月27日

『学校の「当たり前」をやめてはいけない!』(諏訪哲二・著)

花0627。 曇りの日でした。

 午前中,キャリアコンサルタントの学習会でした。DX(デジタルトランスフォーメーション)について,以前に続く話でした。
 DXの現状…,DXの実際…
 DXの進まない状況は…
 DXを進めるには…

 今とこれからを考える話題が満載でした。

 これからのキャリアコンサルティング,これからの暮らしについて考えました。ありがとうございました



 図書館の書架にあった『学校の「当たり前」をやめてはいけない!: 現場から疑う教育改革;ゲンバカラウタガウキョウイクカイカク』(現代書館・刊)です。
 「どこかで聞いた言葉が…
 「"当たり前”とは…
 「この著者(諏訪氏)だから…

 著者は,定期テストや固定担任制を廃止などを行って話題になった工藤勇一氏の『学校の「当たり前」をやめた。』(2018/12/1 時事通信社・刊)について"批判的に検討”をしています。
 麹町中学校長、工藤勇一氏のベストセラー『学校の「当たり前」をやめた。』(時事通信社)を徹底批判。プロ教師の会の諏訪哲二氏が同書を一言一句、検証する。
 学校の「当たり前」を廃止して教育を合理化する工藤校長の学校改革は、はたして子ども、社会のためになるのか。教師は、個人の力量や経験だけではカバーしきれない部分を、学校の「当たり前」で補っているという持論を基に展開。工藤氏の『学校の「当たり前」をやめた。』を適宜引用しながら、学校共同体の大切さや定期テストの意義、担任の権威性、近代的人間が備えるべき教養など、著者の現場での経験を踏まえて幅広く言及し、学校のあり方を考える。
 工藤氏の学校改革と表現,そして本書の内容と表現…,いずれを先に読んでいるかで,受け取り方が大きく変わるような気がします。
 もっとも,それぞれ手に取って読むのかどうか…。

 第一章に,
 「人間形成」か「人材養成」かは単に教育観の違いだけではなく,人間観,社会観の違いにつながっていく。意味だけ考えれば…
と,「人間形成」と「人材養成」を並列し,そこに違いを述べています。ここで「自分が重視しているのは?」「自分の○○観は?」と考えてみるとよいでしょう。
 教育に携わる方も,改めて問われて,即答しにくいでしょうが,大切な内容です。


 さまざまな場面で「Aか?Bか?」と選択を迫られるように感じることがあります。
 工藤氏の提案と著者の批判のいずれが"よい教育か”と考えてしまいそうです。
 でも,教育に,その選択は似合わない,そう再確認できる一冊,いや2冊です。



 読書メモより
○ 学者・研究者たちの成果では,教育的コミュニケーション(教師が生徒に教える相互的なプロセス,と考えてくださ)は,「不確実である」ことはいわば常識である。
○ 教室の実践,対生徒との関係においてはそういうことは絶対に成り立たない。
○ 学校を「人材育成」に純化しようとしているのである。学級という生活・学習共同体がなくなれば,集団の同調圧力がなくなって,いじめも減少すると考えているのであろう。
○ 工藤校長の提言の最大の失敗は氏の言う「「教育の原点」に立ち返らないといけない」が現状すでんび実現されていることに気づかなかったことである。
○ 本人のためと社会のため(社会的に)には必ず誤差があることは常識である。
○ 学校の教育力より社会(経済)の教育力のほうが圧倒的に強い。
○ 教育・学校は「行政のちから」「民間のちから」「教師のちから」「子どものちから」の四つの複合的な運動や競合で動いているが,現在優勢なのは…

  目次

第一章 学校が子ども・社会に果たすべき役割
第二章 「人間形成」か「経済的利益」か
第三章 工藤勇一著『学校の「当たり前」をやめた。』を読む前に
第四章 検証! 『学校の「当たり前」をやめた。』
第五章 『学校の「当たり前」をやめた。』が目指すもの
第六章 「教育の原点」の既視感
第七章 学校を動かす四つの「ちから」
第八章 社会と学校のつながり
第九章 「定期考査の全廃」の意図
第十章 再び担任制の廃止について
第十一章 学級はいらない?
第十二章 工藤校長から子どもたちへのメッセージ
エピローグ
  


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2021年06月26日

ジョーク? 2.(8-1) 明治の初めの作手 (わたしたちの村)

花0626。 時おり雨の降る,曇りの日でした。


 ネットで調べ物をしていて,"ジョーク”として次の話がありました。(ウェブ会議にて)
「そういえば君のいるイギリスは,トイレットペーパー不足で困ってるって?」
「ああ。でもウチはいま代用品でなんとかしのいでるよ。それにしてもロンドンタイムズはお堅いね」
 新型コロナ禍で買い占めが問題になっていた頃に載ったようです。
 ウェブ会議が一般的になり始める頃で"今どき”なのですが,この話で笑いのポイントは,どこ? そして,笑えるのは,どの世代?

 ちょっとモヤモヤした笑いでした。



 郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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    (八) 明治の初めの作手

   1 愛知県の成立
 明治維新によって,日本の国は大きく変わりました。
 1871(明治4)年に,それまでの藩がなくなり,県がおかれました。1872(明治5)年に愛知県ができるまで,作手がどのような県に入っていたかは,下の表のとおりです。
表0626。 4年あまりの間に,4回も県が変わっており,めまぐるしい動きであったことがわかります。
 額田県ができた時,県の中を9つの大区に分け,さらに大区の中をいくつかの小区に分けました。そして,小区ごとに戸長という役目をおいて,村を治めるしごとをさせました。
 作手にあった33の村は,第八大区の第二小区になりました。だから,作手全体で,一人の戸長があったわけです。
 愛知県になると,県の中を15の大区とし,作手は第13大区の中へ入りました。南と北に分かれる前の設楽郡が13大区でした。
 13大区の中は,3つの小区に分かれました。今の菅守学区の6つの村は第三小区,荒原・田代・大和田の3つの村は第二小区に入り,そのほかの作手の村24が第一小区でした。
 愛知県では,それぞれの村ごとに戸長をおきました。戸長は,国や県のさしずにしたがって,村を治めるしごとをしていました。
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 注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で
 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
 注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。  


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2021年06月25日

2.(7-3) 江戸時代の農民のくらし (わたしたちの村)

クチナシ0625。 曇りの天候でしたが,午前中に急に強い雨が降ったり,午後には雷鳴がしたりする一日でした。


 今朝,クチナシの花が咲いていることに気づきました。
 虫が集まっておらず,真っ白い花が綺麗です。香りが弱いのは,「まだ…」なのか「変化した…」からでしょうか。どっちかな。



 郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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    (七) 江戸時代の農民のくらし

   3 道路と旅
 むかしの道は,せまいじゃり道で,雨が降ればぬかるみ,風がふけばほこりがまい,曲がりくねった急な坂道や,多くのとうげをこえなければならなかったので,今のように楽な旅ではなかったのです。
道路0625。 鎌倉時代より前は,旅をしても宿がなかったので,野原や山中で寝ました。このため,山犬や盗賊におそわれることもあり,危険な旅でした。江戸時代になって,しだいに商業が発達し,道路や旅館が整備されたので,通行がさかんになりました。
 作手から東海道へ出るには,新城を経て吉田宿(豊橋市)へ出る道,宮崎(額田郡)を経て赤坂宿(音羽町)へ出る道,岡崎へ出る道などを利用しました。
 むかしは,楽しみが少なかったので,信仰をかねて金毘羅様や秋葉様や善光寺まいり,西国巡礼などをしました。このような旅をする時には,『往来手形』どいう現在のパスポートのようなものを檀那寺で書いてもらい,関所で検査を受けて通りました。
 この往来手形には,自分の住所と名前,檀那寺の証明,行き先などとともに,「お関所を無事に通してください。万一死んだら,その村のおきてのようにかたづけてください。わたしの家へ知らせていただかなくてもけっこうです。」などど書かれていました。
時刻0625。 しかし,むかしの人々は人情があつく,旅人が病気になれば手あてをしたり,病気がかるい時にはつぎつぎと村送りで,旅人の家まで送りとどけたりしてあげました。また,不幸にして死んだ時には,往来手形をたよりに,手紙や飛脚で家族へ知らせてくれました。
 東海道や中山道のような大きな道は,募府の御用や,大名の参勤交代などのために,宿駅や助郷や飛脚などの制度も発達しました。
 『助郷』というのは,旅人の往来がさかんになり,宿駅の人馬だけでは足りなくなったので,近くの村々へ手助けを命じた制度です。
 参勤交代や商人,巡礼などの旅人がますますふえてくると作手の村人たちも,東海道の吉田宿や白須賀宿,二川宿などの助郷を命じられました。
 年貢をとられた上に,農繁期で働き手が必要な時期に,二川宿のように遠い所まで出かけて,ただ同然で働かなければならないために,借金がふえ,年貢もおさめられなくなり,田や畑を売る農民も出てきました。このため宿駅まで働きに行くかわりに,お金を出すようになりました。この制度は明治時代のはじめまで続きました。

旅0625。
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 注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で
 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
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2021年06月24日

『学校の面白いを歩いてみた。』(前屋毅・著)

花0624。 よい天気になり,日差しに暑さを感じました。


 最近届いた冊子に「言葉(同音異義)」を楽しんで(遊んで)いる話がありました。
○ 高齢者の健康管理は → ワクチンの接種と,アルコールの節酒
○ イベント参加 → 緊急事態発生で,緊急辞退
○ プロ野球の無観客試合 → 観戦者ゼロで,感染防止
○ 冷たさの過敏は ~知覚過敏。三密の過敏は ~近く過敏
 新型コロナ禍の話題が,違って見えて・聞こえてきた…。



 書架に並ぶ背表紙で「学校」「面白い」に目がいき手に取った『学校の面白いを歩いてみた。』(エッセンシャル出版社・刊)です。

 はじめにが
 「面白い」の言葉をかぶせたタイトルにしたけれども,これを見て不愉快な表情を浮かべる方々がいるやもしれない。
と始まっています。どうなのでしょう。
 著者が言う「教育は厳格かつ厳粛にやるものだという意識の方々」は,どのくらい"生息”してみえるでしょう。"絶滅危惧種”に近づいているのではないでしょうか。
 確かに,"組織の体質”には,さまざまな形で"拒む”ことを残しているかもしれません。
 大学の教育学部の志願者数が激減しているという。(略) とはいっても,志願者数が募集人員を割っているわけではない。北海道教育大学の競争率は4倍近いし(略) それだけ教員を目指している若者が多いということでもある。
 そんな若者たちがいるというのに,教育のブラックな面ばかりに焦点をあてた情報だけを発信していていいのだろうか,と考えた。
 本書を通して,さまざまな「変化の兆し」「変化の芽」を伝え,子供達の学びが,そして教職員の指導や働き方が,明るく希望に満ちた"これからの学校”への情報を伝えていこうとしていました。

 本書が2019年の発行で,新型コロナ禍により,さらに"変化”しているものと思います。
 紹介されている12の「面白い」から,これからの学校,教育を考えてはいかがでしょう。そこに,面白いや変化を求めるのか,生むのか,考える方向は…。
 教育に携わるみなさん,読んでみませんか。



 読書メモより
○ 「学びって面白いんですよ。赤ちゃんは,誰が教えるわけでもないのに,主体的に意欲的にどんどん言葉を覚えていくじゃないですか。面白いからですよ。」
○ 「(略) 先生が先にいっちゃうと,子どもたちは考えるのを止めてしまうからです。考えるのを中断されて答えを教えられても不快感ばかりで答えは印象に残らない,だから学ぶこともしない」
○ "都会のマンション化”している学校に種をまく
○ 規則で縛ることは,「信用していないぞ」と子どもたちにいっているようなものだ。
○ 「私は『ファーストペンギンでありたい』と説明しました。」

   CONTENS

はじめに
1章 「勉強は面白い」といえる子 ──モンテッソーリで学んだ女の子
2章 広島県福山市が挑戦する「分かる授業」
3章 普通ではない「役立つ」英語の授業をする教員(千葉県柏市)
4章 変わる教員たち ──反発から率先へ(埼玉県所沢市三ヶ島中)
5章 変わる教員たち ──対話型鑑賞を教員に広げる試み(愛媛県)
6章 生徒・児童中心の考えが学校を変える ──校則のない学校(世田谷区)
7章 学校に里山をつくる(横浜市)
8章 「大事なのは遊び」という世田谷区長
9章 学校はカラフルでいい(横浜市)
10章 ファーストペンギンをめざして(埼玉県戸田市)
11章 変わりはじめたのか?文科省
12章 教員が授業を決める


【関連】
  ◇前屋 毅 (@zen_ki)(Twitter)  


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2021年06月23日

沖縄慰霊の日。 2.(7-2) 江戸時代の農民のくらし (わたしたちの村)

沖縄0623。 朝は雨模様の天候でしたが,日中になって晴れ間があり,そこに見えたのは"夏の雲”でした。
 梅雨明けが待たれます。



 今日は,沖縄戦から76年目の「慰霊の日」です。沖縄県に緊急事態宣言が出ているため規模を縮小し「沖縄全戦没者追悼式」が開催されました。
 追悼式では,玉城沖縄県知事が平和宣言をし,中学2年の上原美春さんが平和の詩「みるく世の謳(みるくゆのうた)」を朗読しました。
  ◇【全文】平和宣言(玉城デニー沖縄県知事)2021年度沖縄全戦没者追悼式(琉球新報デジタル)
  ◇平和の詩 「みるく世の謳」全文(琉球新報デジタル)
  ◇社説[コロナ下の慰霊の日]記憶継承へ支援の輪を(沖縄タイムス+プラス)
 【以前のブログ記事】
   ◇「懐中電灯を消してください」(沖縄慰霊の日)(2020/06/23)
   ◇沖縄慰霊の日。「平和の詩」2篇。(2019/06/23)
   ◇「沖縄慰霊の日」。(2018/06/23)

 新型コロナウイルス感染症による"非常時”が続くいています。過去の"戦争”について話題にし"平和”について考える考える機会がもてているでしょうか。
 子供達に,沖縄戦のこと,戦争のことを語り,平和について話し合ってください。それが,これからの子供の行動の変化につながっていくと思います。



 郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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    (七) 江戸時代の農民のくらし

   2 入会山と山争い
分布0623。 江戸時代の林野(山林や草刈り場)には,募府が直接管理する御林と,大名や旗本が所有した林野,お宮やお寺が所有した寺社領,農民が共同で所有した入会山とがありました。このほかに,農民が私有した林野もありましたが,これはわずかなものでした。
 むかしは,今の山のようにスギやヒノキが植えられた山はほとんどなく,大部分は雑木や草・笹などがはえていました。農民は,この入合山から,馬や牛のえさや,田畑の肥料にするための草を刈りました。また,たきぎや家を建てるための木を切ったり,屋根をふくためのカヤを刈りました。しだいに年貢の取りたてがきびしくなると,肥料や馬のえさにする草が多く必要となり,争いがおこるようになりました。このため,草刈りをする日や時間を決め,山へ入る人数や使う道具などを決めるようになりました。
 作手の山争いの一番古い記録は,1637(寛水14)年の雁峰山の争いで,里方31か村(今の新城市西部と北部)と,山方六か村(布里・塩瀬・小林・杉平・田代・一色)が争った時のものです。
山論0623。
 江戸時代の初めのころまでは,入会山の境は雁峰の峰となっていました。ところが,里方は田が広く,その上,年貢のとりたてがきびしくなるにしたがい,肥料にする草がたくさん必要になって,雁峰山をこえて作手や布里・一色の村までも入ってきました。このため,作手や布里の人たちは,自分たちの山をあらされないように力を合わせて里方の農民を追いはらいました。その後,三河の代官鈴木八右衛門と鳳来寺の月蔵坊というえらいお坊さんが仲裁に入って事件は収まりました。
 このほかにも,1642(寛水19)年に,現在の下山村の羽布と,黒瀬・善夫・菅沼の四か村で郡境の争いがおこり,京都から専門の絵図師をよんで,山奥で絵図を書かせました。その絵図を書いた所が,下山村大字羽布字エス小屋だと言われています。この後も,たびたび境の争いがあり1781(天明元)年には,伊豆韮山の代官江川太郎左衛門が,田原の総特院ヘ泊って境争いの仲裁をした記録があります。このような争いは,明治時代まで続きました。
論地さま0623。
  論地さま
 1689(元禄11)年のこと,里方11か村(新城の内)が,雁峰山をこえて弓木村まで草刈りに入りました。このため山方三か村(弓木・小林・川手)が刃物や鉄砲をもち出して,柳沢という所で争いました。その時,弓木村の代表の一人が,里方の百姓にころされてしまいました。その人をお祭りしたのが論地さまです。
 現在,弓木地区に南部簡易水道第四配水池がありますが,この横の治山用作業道を150メートルほど登った左のコンクリートブロック積みの上に,しめなわをはってお祭りしてあります。弓木の人たちは,今でも毎年春と秋に赤飯のおにぎりを作り,ねむの木の板のおぜんにのせ,お神酒は竹のつつに入れてお祭りします。
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 注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で
 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
 注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。


【参考;平和の詩
  


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2021年06月22日

2.(7-1) 江戸時代の農民のくらし (わたしたちの村)

鳥0622。 朝は青空でしたが,徐々に雲が広がった曇りの日でした。

 最近,地区の防災活動や防災備品・備蓄について,確認や打合せを何度かしています。
 「もしも…」について思いを巡らせ,限られた予算のなかで,できる対応を検討しています。
 備品や備蓄が使われないうちに"期限”となることを願いながら…。



 郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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    (七) 江戸時代の農民のくらし

   1 ききんと百姓一揆
 江戸時代の作手の大部分は,天領と伊勢の鳥羽藩の領地でしたが,そのほかに,今の菅沼学区と大和田が,鳳来町海老に陣屋のあった,三千石の旗本菅沼氏の知行所でした。菅沼氏は,作手のほかに鳳来町の西部と山吉田をもっていましたが,三千石ばかりの旗本なので財政が苦しく,米年貢のほかに,時には,茶年貢や竹年貢・栗丸太代などもとりました。傘連判0622。そのほかにも二千四百両もの御用金をとられ,さらに「千両を出せ」と言われたり,「村々の神社の木をとりあげる」などと言われました。続くききんと,きびしい年貢のとりたてにおこった,大和田・木和田・御領・道貝津・小田・善夫と笠井嶋・鳥田・塩瀬・大輪・恩原の11の村の農民が,1854(嘉水7)年1月14日,木和田のうら田にあるあかし場という所へ集まり,『傘連判』を作り,御用全のとりやめをうったえようどしました。1月16日の夜12時に,ついに一揆は決行されました。みのとかさをつけて,くわやかまを持ち,むしろ旗をおし立てた472人の農民は,新城の桃牛寺へ集まり気勢を上げました。しかし,このさわぎも本家の新城菅沼氏の役人にとりしずめられ,御用金の千両を分けておさめることで解決しました。この一揆に参加しなかった上菅沼村ど下菅沼村は,後になって殿様からほうびをもらいました。
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 注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で
 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
 注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。  


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2021年06月21日

夏至。2.(6-2) 年貢のとりたて (わたしたちの村)

花0621。 今日は二十四節気の一つ「夏至」(10番目の節気)です。この頃から夏の盛りに向かいます。
 北半球では,一年のうちで太陽が最も高く昼間の時間が最も長くなる日です。“太陽の力が最も強まる日”とされ,夏至祭が催される地域があります。
 また,暦の記事には,菖蒲が咲き始め,半夏烏柄杓)が生えてくる頃とありました。

 今朝のウェザーニュースの記事に,「昼の長さ」の解説があり,日の出・日の入りの時刻について述べられていました。
 実は、日の出が最も早いのは夏至の一週間ほど前で、日の入りが最も遅いのは夏至の一週間ほど後となっています。夏至はあくまで、昼間の長さが(日の出から日の入りまで)が最も長い日のことなのです。(略)
 日の出が最も早い日と日の入りが最も遅い日は、南へ行くほど差が大きくなり、沖縄付近では10日ほどずれますが、北海道付近では5日ほどしかずれません。ただ、一日で数秒の差なので、実際に私達が変化を感じることは難しそうです。
 ご存じでしたか。体感できる違いではないようですが,これから暑くなる時期に,すでに日の出は遅くなっているようです。もっとも,この時刻に起きてはいないですが…。

 みなさん,夏至の一日,いかがお過ごしでしたか。



 郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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    (六) 年貢のとりたて

   2 年貢のわりあてと年貢おさめ
 検地帳によって村々のお米の収穫高がわかりますが,さらに『検見』を行って,その年の収穫高をくわしく調べて年貢を決めました。しかし,毎年検見を行うのは大変でしたので,後には『定免』といって,大きな災害がなければ5年間は同じ割合の年貢をだすようになりました。
年貢0621。 年貢は,今の税金と同じですが,この地方の年貢率は,収穫高の50パーセント以下でした。しかし,年貢のほかにも働きに出されることがあって,農民の生活は苦しいものでした。
 年貢をおさめるために,作手の天領の村々は,新城の中市場や石田の川岸まで,馬一頭に米二俵ずつをつんで運びました。ここからは,船で豊川を下り,宝飯郡の御馬の港まで行きました。この港からは,大きな船で,江戸や大阪などへはこばれました。
 また,年貢をおさめた帰りには,食糧や着物を買うのが楽しみでした。
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 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
 注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。


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Posted by ガク爺 at 17:00Comments(0)日記作手