2021年06月27日
『学校の「当たり前」をやめてはいけない!』(諏訪哲二・著)

午前中,キャリアコンサルタントの学習会でした。DX(デジタルトランスフォーメーション)について,以前に続く話でした。
DXの現状…,DXの実際…
DXの進まない状況は…
DXを進めるには…
今とこれからを考える話題が満載でした。
これからのキャリアコンサルティング,これからの暮らしについて考えました。ありがとうございました。
図書館の書架にあった『学校の「当たり前」をやめてはいけない!: 現場から疑う教育改革;ゲンバカラウタガウキョウイクカイカク』(現代書館・刊)です。
「どこかで聞いた言葉が…」
「"当たり前”とは…」
「この著者(諏訪氏)だから…」
著者は,定期テストや固定担任制を廃止などを行って話題になった工藤勇一氏の『学校の「当たり前」をやめた。』(2018/12/1 時事通信社・刊)について"批判的に検討”をしています。
麹町中学校長、工藤勇一氏のベストセラー『学校の「当たり前」をやめた。』(時事通信社)を徹底批判。プロ教師の会の諏訪哲二氏が同書を一言一句、検証する。工藤氏の学校改革と表現,そして本書の内容と表現…,いずれを先に読んでいるかで,受け取り方が大きく変わるような気がします。
学校の「当たり前」を廃止して教育を合理化する工藤校長の学校改革は、はたして子ども、社会のためになるのか。教師は、個人の力量や経験だけではカバーしきれない部分を、学校の「当たり前」で補っているという持論を基に展開。工藤氏の『学校の「当たり前」をやめた。』を適宜引用しながら、学校共同体の大切さや定期テストの意義、担任の権威性、近代的人間が備えるべき教養など、著者の現場での経験を踏まえて幅広く言及し、学校のあり方を考える。
もっとも,それぞれ手に取って読むのかどうか…。
第一章に,
「人間形成」か「人材養成」かは単に教育観の違いだけではなく,人間観,社会観の違いにつながっていく。意味だけ考えれば…と,「人間形成」と「人材養成」を並列し,そこに違いを述べています。ここで「自分が重視しているのは?」「自分の○○観は?」と考えてみるとよいでしょう。
教育に携わる方も,改めて問われて,即答しにくいでしょうが,大切な内容です。
さまざまな場面で「Aか?Bか?」と選択を迫られるように感じることがあります。
工藤氏の提案と著者の批判のいずれが"よい教育か”と考えてしまいそうです。
でも,教育に,その選択は似合わない,そう再確認できる一冊,いや2冊です。
読書メモより
○ 学者・研究者たちの成果では,教育的コミュニケーション(教師が生徒に教える相互的なプロセス,と考えてくださ)は,「不確実である」ことはいわば常識である。
○ 教室の実践,対生徒との関係においてはそういうことは絶対に成り立たない。
○ 学校を「人材育成」に純化しようとしているのである。学級という生活・学習共同体がなくなれば,集団の同調圧力がなくなって,いじめも減少すると考えているのであろう。
○ 工藤校長の提言の最大の失敗は氏の言う「「教育の原点」に立ち返らないといけない」が現状すでんび実現されていることに気づかなかったことである。
○ 本人のためと社会のため(社会的に)には必ず誤差があることは常識である。
○ 学校の教育力より社会(経済)の教育力のほうが圧倒的に強い。
○ 教育・学校は「行政のちから」「民間のちから」「教師のちから」「子どものちから」の四つの複合的な運動や競合で動いているが,現在優勢なのは…
目次
第一章 学校が子ども・社会に果たすべき役割
第二章 「人間形成」か「経済的利益」か
第三章 工藤勇一著『学校の「当たり前」をやめた。』を読む前に
第四章 検証! 『学校の「当たり前」をやめた。』
第五章 『学校の「当たり前」をやめた。』が目指すもの
第六章 「教育の原点」の既視感
第七章 学校を動かす四つの「ちから」
第八章 社会と学校のつながり
第九章 「定期考査の全廃」の意図
第十章 再び担任制の廃止について
第十一章 学級はいらない?
第十二章 工藤校長から子どもたちへのメッセージ
エピローグ