2023年02月28日

3-1.6 「奥平貞昌」 (作手村誌)

花0228。 2月最終日。2023年の2か月が過ぎました。
 元旦に立てた「一年の計」は、着実に進んでいますか。



 『作手村誌』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。
 昨年の大河ドラマが鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。
 『作手村誌』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。
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    第二編 村の沿革と歴史

    人物 奥平氏
  奥 平 貞 昌
 監物、六郎左衛門、八郎左衛門、薙髪して道閑と号す、第百二代後花園天皇の宝徳三年三月十日亀山城に生る、貞久の長男なり、産湯は須山村池ノ坊(善福寺の一坊なり)の井戸水を用いたりという。
 第百四代後柏原天皇の永正三年八月駿河の今川氏親を離れて徳川氏に帰し更にまた今川氏親に従う、永正十一年三月氏親、遠江国引左郡三獄山を襲う。城主斯波義達城を捨てて奥山に走る、貞昌をして三獄山城に在番せしむ、氏親、作手本領以外遠江国河西の地三千貫を与う、領土益々拡がる。
 第百五代後奈良天皇の享禄三年五月徳川清康(家康の祖父)織田の部将態谷備中守直盛を三河国宇利城に攻めんとし、東三河の諸領主に援助を求む、貞昌、世子貞勝を伴いて出征し、撃ちて直盛を走らす、直盛の領地を与えてその功を賞す。
 貞昌四男二女あり、長は貞勝、次男久兵衛貞直に額田郡日近(土賀)郷を与えて名ノ内村に築かしめ族臣を以て遇す(一説日近の領主松平孫四郎の婿となりて遺領を継承すと)、三男次郎左衛門に額田郡豊富村の取川を、四男掃部貞行に田原沢を与う、長女松平康定へ、次女雨山の城主阿知波民部定基へ嫁す。北畑の領主兵藤太郎八の来属は貞昌の時代とも言う。貞昌初め嗣子なきを憂へ、見代の住人権田藤八郎重行を養う、六十三才にして貞勝の誕生に及び、重行自ら拝辞して臣下となるの説あり、未だその当否を知らず。第百五代後奈良天皇の天文四年四月二十日三獄山城に於て卒す、八十五才、法名一法道閑大禅定門、三獄山中に葬ると称するも所在不明、或は作手に改葬せしものならんか、室、山下荘右衛門の女、第百六代正親町天皇の永禄五年十二月十八日卒す、宝秀清珍禅定尼、墓所不明。
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 注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で
 注2)本誌の本文内で、小文字や2行表記等されているものを、( )で示している。

【掲載記事から】
  ◇「三代貞昌と三嶽山城」(続 つくで百話)(2019/12/14)  
タグ :作手村誌


Posted by ガク爺 at 18:00Comments(0)作手