2024年12月02日
教養と…。 14-9 出城網(1) (作手村誌57)
天気のよい一日でした。
師走に入り、“2024年もあとひと月…”と、一年の整理と新しい年のことを考えていて、以前に聞いた言葉(話?)を思い出しました。
今も言われる言葉なのか承知しませんが、以前に読んだ『老害の人』(内館牧子・著)にも、
これらに“貯金”も加えて、高齢化社会で日々を健康に過ごすための合言葉なのだそうです。
“きょうよう”、あったかな。
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 - 第二章 中世」-「第七節 城郭概説」の紹介です。
「歴史」について、これまでに『作手村誌』(昭和35年版)の記事を紹介しています。
項目立てを変えて述べられいる本版から、執筆当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
********
第二編 歴史 - 第二章 中世
第七節 城郭概説
(つづき)
*出城網
※ クリックすると拡大表示
戦国のころともなると、消極的に一城に立籠って敵を防ぐより、広い地域に数城を配置し相い協力して戦うようになる。そこで本城のほかにいくつかの支城を要地に設け、あるいは境を守り、敵城を監視し、相互連絡の役を果した。これがいわゆる出城網で、その支城は盆地や高原の入口にある天峻の要害に設けられた小砦か、部下の土豪の居館で、それ自体はさして有力なものではなかった。
苛烈な戦国の世に処し敵に勝ちぬくためには、常に相手の情勢を正しく把握していなければならない。そのためには乱破、素破などというスパイを敵地に放ち、境界には関所を設け人の出入を検し、得た情報は一刻も早く本城に注進せねばならない。そのためにさきに述べた情報伝達網をフルに活用し、領内には蟻一匹の侵入も許さないというのが理想であった。
それでは奥平氏の場合はどうであったろうか。本拠亀山城は作手郷としては南に偏しているが、額田・宝飯両郡の領地を考慮すると領国支配に適した位置といえる。しかし城地は低い丘陵にあるため、高櫓の上に立っても視界はせいぜい2キロメートルである。したがってその耳目として文珠山城があり、ここを中核として伝達防衛の網をひろげる。
敵が目前に現れてからでは到底戦争はできない。少なくとも戦闘準備を完了するまでの時間を最低一刻(2時間)とみて、それ以前に通報を入手している必要がある。試みに地図で探ってみると、北方小田城の場合は本城までの直線距離20km。情報は飯盛山──木和田山城──獅子ヶ森を経由して本城に達する。おそらく30分とはかからないだろう。行軍は支障なく行われたとしても、時速4kmで6時間、実際の道は山間を高低曲折しているので実里程は倍もあり、途中の障害を考慮すると一日行程である。しかも当時の道は馬のすれちがいがやっとで、常時2人が並んで行軍できる区間はいくらもない。先頭は里に出ても、末尾はまだ山にもかかっていないというわけで、戦闘体形をとるまでには時間を要した。
最も短距離の大和田口にしても直線距離10km、巴川の谷筋をとれば途中に見代城・杉平城があり、戸津呂・野郷・川合・北畑等村々に、地侍の抵抗を受けることは必至で、距離は短くとも半日という訳にはゆかないだろう。
(つづく)
********
注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
《参考》◇「地域の話題」から(リンク集)(2024/10/04)
師走に入り、“2024年もあとひと月…”と、一年の整理と新しい年のことを考えていて、以前に聞いた言葉(話?)を思い出しました。
あなたは、“教養”があり、“教育”がありますか。何のことかお分かりですか。
今も言われる言葉なのか承知しませんが、以前に読んだ『老害の人』(内館牧子・著)にも、
「 老人に必要なのは趣味じゃない。教育と教養なんです。」/(略) 『今日行く』よ。/(略) 『今日用』よ。と出てきました。
これらに“貯金”も加えて、高齢化社会で日々を健康に過ごすための合言葉なのだそうです。
きょうよう = 今日用。「今日する用事がある」目的や目標をもって、人との交流があり、日々を過ごせることは、高齢者はもちろんですが、どの年代の人でも大切なことだと思います。
きょういく = 今日行く。「今日行く場所がある」
ちょきん = 貯筋。(筋力をつけて心身の健康を維持する)
“きょうよう”、あったかな。
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 - 第二章 中世」-「第七節 城郭概説」の紹介です。
「歴史」について、これまでに『作手村誌』(昭和35年版)の記事を紹介しています。
項目立てを変えて述べられいる本版から、執筆当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
********
第二編 歴史 - 第二章 中世
第七節 城郭概説
(つづき)
*出城網
※ クリックすると拡大表示
戦国のころともなると、消極的に一城に立籠って敵を防ぐより、広い地域に数城を配置し相い協力して戦うようになる。そこで本城のほかにいくつかの支城を要地に設け、あるいは境を守り、敵城を監視し、相互連絡の役を果した。これがいわゆる出城網で、その支城は盆地や高原の入口にある天峻の要害に設けられた小砦か、部下の土豪の居館で、それ自体はさして有力なものではなかった。
苛烈な戦国の世に処し敵に勝ちぬくためには、常に相手の情勢を正しく把握していなければならない。そのためには乱破、素破などというスパイを敵地に放ち、境界には関所を設け人の出入を検し、得た情報は一刻も早く本城に注進せねばならない。そのためにさきに述べた情報伝達網をフルに活用し、領内には蟻一匹の侵入も許さないというのが理想であった。
それでは奥平氏の場合はどうであったろうか。本拠亀山城は作手郷としては南に偏しているが、額田・宝飯両郡の領地を考慮すると領国支配に適した位置といえる。しかし城地は低い丘陵にあるため、高櫓の上に立っても視界はせいぜい2キロメートルである。したがってその耳目として文珠山城があり、ここを中核として伝達防衛の網をひろげる。
敵が目前に現れてからでは到底戦争はできない。少なくとも戦闘準備を完了するまでの時間を最低一刻(2時間)とみて、それ以前に通報を入手している必要がある。試みに地図で探ってみると、北方小田城の場合は本城までの直線距離20km。情報は飯盛山──木和田山城──獅子ヶ森を経由して本城に達する。おそらく30分とはかからないだろう。行軍は支障なく行われたとしても、時速4kmで6時間、実際の道は山間を高低曲折しているので実里程は倍もあり、途中の障害を考慮すると一日行程である。しかも当時の道は馬のすれちがいがやっとで、常時2人が並んで行軍できる区間はいくらもない。先頭は里に出ても、末尾はまだ山にもかかっていないというわけで、戦闘体形をとるまでには時間を要した。
最も短距離の大和田口にしても直線距離10km、巴川の谷筋をとれば途中に見代城・杉平城があり、戸津呂・野郷・川合・北畑等村々に、地侍の抵抗を受けることは必至で、距離は短くとも半日という訳にはゆかないだろう。
(つづく)
********
注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
《参考》◇「地域の話題」から(リンク集)(2024/10/04)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。