2024年12月16日
15-4 古宮城址(1) (作手村誌57)
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 - 第二章 中世」-「第九節 作手の城址」の紹介です。
「歴史」について、これまでに『作手村誌』(昭和35年版)の記事を紹介しています。
項目立てを変えて述べられいる本版から、執筆当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 - 第二章 中世
第九節 作手の城址
(つづき)
*古宮城址
〔所在地〕 作手村大字清岳字宮山 (図19)
亀山城と川尻城を結ぶ直線の半ば、湿原中に畑起する比高差24m、長径約250m、短径200mの独立した青山全体を城地としたもので、立地からいえば平山城に属する。外見は一つの円丘と見える宮山も、仔細に見ると中央部に北から深く入り込んだ谷があり、これに呼応する両側にも浅い谷があって、あたかも駱陀の瘤の如く、城地は東西の二城に分かれている。各丘の頂上谷側に本丸以下主要塁郭を置き、他の三方に二重・三重に濠を掘り、土塁を連ね、曲輪を重ねるという防禦本位の梯郭式の城を、二つ連絡した一城別郭式である。
さきに本城は湿原中にあるといったが、正確には西の一部が本城山麓の台地に連っており、ここを堀切って水濠又は泥濠とし、西方からの侵攻に備えた。今は国道301号線から分岐して、鴨ヶ谷方面に通ずる県道挙母大野線が、東端白鳥神社前を過ぎているが、中世も交通事情は全く同じで、泥濘背丈を没する大湿原を横断する道は、めったに変更できない。したがって本城への攻撃は東西の双方が可能であるが、東方鴨ヶ谷口は人ー人、馬一頭がやっと通れる湿原中の小径では、一時に多人数の通行は不能である。そこで戦争の攻撃路は西方市場口しかない。このため地続き部分に濠が二重あるいは三重に掘られたわけで、現在西北部に遺構が残されている。したがって二城の分担は明らかで、東城が守備の中心で首将の居るところ、西城はその前衛として敵の攻撃を少しでも永く阻むための、あらゆる工夫が加えられ施された。
当城の築城は1571(元亀2)年で、山家三方の雄奥平氏も武田氏の武威に屈し、人質を出してその麾下に加わったとき、その押えとして馬場美濃守信房に命じ縄張させた。馬場氏は人も知る信玄の信望篤き名将で、その築城術はのちに甲州流として世に喧伝されている。全山余すところなく地形に応じて塁郭を配置し、全く 一分の隙間もない名城であるが、守るに人なけば万般の施設が生きず、1573(天正元)年8月にはあっけなく自焼陥落してしまった。
〔西城〕 まず最初に、東城と西城を分かつ中央の南北谷について見ると、北側の谷は規模も雄大で、自然の谷に人工を加えて側壁を急峻にし、その堀土は下方両側に盛上げ土塁としている。最下端に長辺18.5m、短辺13.5m、三方を高さ1.5mの土塁で囲んだ、深さ1mの溜池がある。ここから東南に向けて40m上昇し、南に折れ40mで谷の頂部、西城と東城をつなぐ地峡部に達する。谷は自然のものであるが、城郭では攻上がる敵の勢いを分散させる効があるところから、こうした谷を竪濠と呼ぶので、ここでもじ後はこの呼称に従うことにする。竪濠の上幅は下部で28m、中央30m、上部20m、濠底幅は所により異るが5~10m、深さ5~8m、全長80mとすこぶる雄大である。
南竪濠はこれに比べると小形で、濠幅20m全長も45m、とそれだけ傾斜が急になる。この方は自然というより人工による開削と思われる。古図によるとここに登城路が描かれているが、いま格別の遺構は見当たらないが、位置からして大手口であろう。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
注3)右図「作手村の城址・古石塔・寺院分布図」をクリックすると拡大表示します。
【関連】
◇古宮城址 (作手の名勝と史跡めぐり)(2021/05/11)
◇古宮城址 (作手見聞録)(2022/11/04)
《参考》◇「地域の話題」から(リンク集)(2024/10/04)
「歴史」について、これまでに『作手村誌』(昭和35年版)の記事を紹介しています。
項目立てを変えて述べられいる本版から、執筆当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 - 第二章 中世
第九節 作手の城址
(つづき)
*古宮城址
〔所在地〕 作手村大字清岳字宮山 (図19)
亀山城と川尻城を結ぶ直線の半ば、湿原中に畑起する比高差24m、長径約250m、短径200mの独立した青山全体を城地としたもので、立地からいえば平山城に属する。外見は一つの円丘と見える宮山も、仔細に見ると中央部に北から深く入り込んだ谷があり、これに呼応する両側にも浅い谷があって、あたかも駱陀の瘤の如く、城地は東西の二城に分かれている。各丘の頂上谷側に本丸以下主要塁郭を置き、他の三方に二重・三重に濠を掘り、土塁を連ね、曲輪を重ねるという防禦本位の梯郭式の城を、二つ連絡した一城別郭式である。
さきに本城は湿原中にあるといったが、正確には西の一部が本城山麓の台地に連っており、ここを堀切って水濠又は泥濠とし、西方からの侵攻に備えた。今は国道301号線から分岐して、鴨ヶ谷方面に通ずる県道挙母大野線が、東端白鳥神社前を過ぎているが、中世も交通事情は全く同じで、泥濘背丈を没する大湿原を横断する道は、めったに変更できない。したがって本城への攻撃は東西の双方が可能であるが、東方鴨ヶ谷口は人ー人、馬一頭がやっと通れる湿原中の小径では、一時に多人数の通行は不能である。そこで戦争の攻撃路は西方市場口しかない。このため地続き部分に濠が二重あるいは三重に掘られたわけで、現在西北部に遺構が残されている。したがって二城の分担は明らかで、東城が守備の中心で首将の居るところ、西城はその前衛として敵の攻撃を少しでも永く阻むための、あらゆる工夫が加えられ施された。
当城の築城は1571(元亀2)年で、山家三方の雄奥平氏も武田氏の武威に屈し、人質を出してその麾下に加わったとき、その押えとして馬場美濃守信房に命じ縄張させた。馬場氏は人も知る信玄の信望篤き名将で、その築城術はのちに甲州流として世に喧伝されている。全山余すところなく地形に応じて塁郭を配置し、全く 一分の隙間もない名城であるが、守るに人なけば万般の施設が生きず、1573(天正元)年8月にはあっけなく自焼陥落してしまった。
〔西城〕 まず最初に、東城と西城を分かつ中央の南北谷について見ると、北側の谷は規模も雄大で、自然の谷に人工を加えて側壁を急峻にし、その堀土は下方両側に盛上げ土塁としている。最下端に長辺18.5m、短辺13.5m、三方を高さ1.5mの土塁で囲んだ、深さ1mの溜池がある。ここから東南に向けて40m上昇し、南に折れ40mで谷の頂部、西城と東城をつなぐ地峡部に達する。谷は自然のものであるが、城郭では攻上がる敵の勢いを分散させる効があるところから、こうした谷を竪濠と呼ぶので、ここでもじ後はこの呼称に従うことにする。竪濠の上幅は下部で28m、中央30m、上部20m、濠底幅は所により異るが5~10m、深さ5~8m、全長80mとすこぶる雄大である。
南竪濠はこれに比べると小形で、濠幅20m全長も45m、とそれだけ傾斜が急になる。この方は自然というより人工による開削と思われる。古図によるとここに登城路が描かれているが、いま格別の遺構は見当たらないが、位置からして大手口であろう。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
注3)右図「作手村の城址・古石塔・寺院分布図」をクリックすると拡大表示します。
【関連】
◇古宮城址 (作手の名勝と史跡めぐり)(2021/05/11)
◇古宮城址 (作手見聞録)(2022/11/04)
《参考》◇「地域の話題」から(リンク集)(2024/10/04)
Posted by ガク爺 at 17:00│Comments(0)
│作手
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