2019年12月17日

「四代貞勝と石橋館」(続 つくで百話)

花1217。 昨夜からの雨が降り続きました。ただ,日中は止んだり小雨になることがありました。
 傘を持って出かけましたが,それを使わずに過ごすことが出来ました。



 『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語(その二)」からです。
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    作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)その二
          四代貞勝と石橋館

 四代貞勝は貞昌の長男で九八郎監物と称し,薙髪の後は道文と号しました。永正九年亀山城中に誕生,十九歳の時父に従って宇利城を攻め,搦手門一番乗りをして勇名を轟かせました。天文四年父貞昌の死亡により家を嗣いだのが二十四歳,その二年後に石橋弾正の変が起りました。貞久の二男久勝は市場村の石橋館に住したので人呼んで石橋禅正といいましたが,二代禅正の時貞勝の若年に乗じ家を奪わんと計画しました。逸早くこれを探知した貞勝は,一族和田城主貞盛の二男土佐定雄をしてその居館を急襲させ,これを斃して難を未然に防ぎました。この功によって定雄は設楽郡稲木村を与えられ,族臣に列せられました。また禅正の遺子両名が,鳳来寺に匿われているのを誘き出し,誅殺するに功のあった黒谷郷主重広の二子重氏重吉両名を重臣に加え,吉川村を与え後五老に列します。
 戦国の世も,この頃になると,作手をめぐる東三河も松平,今川,織田,武田など群雄角逐の地となり,この間に処して帰趨を誤らず家を保ってゆくことは,並大抵のことではありません。貞勝や,その子貞能の一生は,まこと剣の刃渡りのようなもので,一歩誤れば破滅でした。作手奥平も天文末年までは今川の傘下にありましたが,弘治二年(一五五七)織田信長の勢いが東美濃に及び,奥三河にも積極的な勧誘があったので,その強い誘いにまかせ,田峯,長篠の両菅沼氏と共にこれに属しました。しかし菅沼一族の中には,頑として止まるものもあり,勢の赴くところ内紛激化して,田峯城主菅沼定継は布里の一戦に敗れて自殺しました。奥平貞勝は雨山城に拠って抵抗しましたが,野田城菅盈に攻落されて,再び今川氏に降りました。折角の懐柔策が失敗に帰すると,織田氏は実力行使の強硬策に転じ,永禄元年五月東美濃衆を煽動し名倉平に侵入しました。貞勝は名倉の城将奥平信光を援けて船渡橋に迎え撃ち,これを退けました。その時の感状
 去五月十七日於名倉船戸橋岩村衆と遂一戦各人数粉骨高名感悦也併依一身之異見者也仍如件
  永禄元年六月二十五日     義元 花押
     奥平監物入道殿
 しかしその今川氏も,永禄三年桶狭間の戦で義元が戦死すると,嗣子氏真の暗愚を見抜き,まず徳川家康が独立して西三河を掠め,四年には野田,長篠,田峯の菅沼氏ら悉くが徳川方となりましたが,ひとり奥平氏のみは旧誼を重んじて今川方にとどまりました。しかし奥平氏の勇武を知る家康は,辞を低くして招致に努めたので,永禄七年(一四六四)意を決し五十余年に及ぶ今川氏との関係を断ち,徳川氏に属しました。その時家康から与えられた知行書が「藩史」に載っています。
知行之事
 一四百貫文 牛久保城共
 一二百貫文 行明
 一百貫文  大村不動堂方
 一百貫文  豊川中条方
 一百貫文  小倉方
 一百貫文  麻生田
 一百貫文  加茂
 一五百貫文 下条
 一五百貫文 不とや (略)
 一八百貫文 大沼領一円
 一四百貫文 保久一円
 一五百貫文 大給領
    都合三千五百貫文
 一遠州三ヶ之事
 一日近   如近年其方河為家中事
 一縁組之事
 一徳政之儀 駿遠東三河之分者先年如被相究相違有間敷事右条々如件
  永禄七甲子二月二十七日  家康 花押
     奥平監物之丞殿
 以上の文書は,奥平氏が徳川方となるによって失われる,遠州河西三千貫の代替として,東三河に於て支給されたものですが,特に後文の遠州三ヶ一,縁組,徳政などについては疑問が多く直ちには信じられませんが参考のため掲げておきます。
 元亀二年になると武田信玄の将秋山晴近が東三河の山中に焼働し,田峯,長篠の菅沼氏名倉奥平氏等これに降りましたが,独り作手奥平のみは城を固くして出でず,一族を集めてその去執を協議しました。貞能,信昌父子があくまで徳川氏に止まらんとするに反し,貞勝のみは四近悉く武田に降る中に,ひとり作手の寡兵を以て守ることの不可能を説き,しばらくはその鋭鋒を避くるため,質子を出して降らざるを得ない立場を力説したので,貞能以下列座もこれに従わざるを得ず,武田氏に降りました。貞勝は余程武田氏に魅かれたらしく,天正元年八月,貞能信昌父子が徳川方に走った時も,貞勝独り武田方に留り,甲斐国巨摩郡中村に住みました。武田勝頼死後は三河に帰り,額田郡滝山城に潜居しましたが,文禄四年十月九日宮崎村中久保で歿しました。世寿八十四,法名郁甫道文大禅定門。
 貞勝には四男五女あり,次男常勝は設楽郡小田村に,三男貞治は関ヶ原に戦死,四男貞国は尾州家に仕えました。長女は松平康定へ,二女は菅沼定直へ,三女は鵜殿長忠へ,四女は山崎勝宗へ,五女は奥平正俊へそれぞれ嫁しました。
亀山城址1217。 貞勝家督相続直後に起きた石橋館事件は,若い領主にとって全くショッキングなものでした。元来石橋館は二代貞久の二男久勝が奥平家の領土の四分の一を分与され,亀山城の鼻の先に創設されたもので,宗家につぐ実力をもつ家臣中最大の実力者でした。当時は久勝の子二代目弾正で己が勢威を過信し,若年の本家を斥けてこれに代らんと,密かに画策中を本家側に探知され,却って夜討をうけ一族郎党四十二人皆殺しとなりました。惨鼻とも冷酷ともいいようもない内訌事変の結末でした。
 戦国時代は実力が一切を支配する時代であり,下克上の風潮は一世を覆うていましたから,石橋弾正の出現もその一つの現れにすぎません。力ある者はいつでも上をうかがう。反対に主たる者は力ある家臣を常に警戒したわけで,不軌陰謀をロ実に,権臣を除くということもあったわけです。石橋弾正誅殺事件が果してその何れか,今では知る由もありません。
 石橋館は亀山城の西二〇〇メートル,市場部落の国道沿いにあり,一辺七二メートル,高さ五メートルほどの方形テーブル状の丘上にあり,典型的な居館城です。周囲に濠をめぐらし,その土は内部に掻上げ土塁としたもので,今もその一部が東北部に残りお寺の墓地となっています。その夜,命をうけた定雄は,手兵を率い表門を打破って乱入し,賜うところの長槍を揮うて立向う敵兵を突伏せ,ついに弾正を殪しました。誅に伏するもの四十二人,老幼男女を問はず伏屍累々として館内を埋め,流血さながら池をなして,石橋城はこの世ながらの地獄図絵でした。今の慈照院は,その崇りを恐れた貞勝の建立した寺で,弾正宮の石祠のあるところは,四十二人の死骸を一穴に埋めた所と言います。
 「村誌」によるとこの時奥平喜八郎が討死したといいます。奥平系図で喜八郎を称えるのは名倉奥平だけですから,多分初代喜八郎貞次のことでしょう。しかし其子信光(幼名松千代)船戸橋合戦を十六歳の時といいますから,逆算すると信光の出生は天文十三年となり,父の死后七年を経過することになり,理屈に合いません。しかし系図くらい宛にならないものはないということは,すでに皆様御承知ですから,その詮議はこの辺で打切ります。
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   ◇公益財団法人日本城郭協会





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Posted by ガク爺 at 17:00│Comments(0)作手
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