2024年09月10日

9-5 交易(1)(生業と交易・交通) (作手村誌57)

栗0910。 『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第四編 文化 - 第三章 民俗」-「第三節 生業と交易・交通」の紹介です。
 “昭和レトロが若者に人気ですが、それとは違う内容になりそうです。しかし、昔の“文化を“”に活かしていくヒントを探ってみたいと思います。
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    第四編 文化 - 第三章 民俗
     第三節 生業と交易・交通
(つづき)
  *交易
 古来、作手の大部分は新城経済圈に属していた。「山の中でも新城は都、月に一度の市がたつ」と里謡に歌われ毎月28日の市は迷い子が出る程であった(『新城市誌』)。元治2年(1865)の「山湊馬浪」の記述によって新城を中心とした問屋仲買・信州中馬・三州馬稼ぎ等をみると、江戸・大阪から大型船で前芝・下地に運びそこで川舟に積みかえて豊川を遡って新城の田町川河口の新川岸に陸揚げした。新城湊0910。入船の町名もここからであろうか。当時100艘内外が豊川を上下していた。舟荷を人馬運搬向けに目方を量り荷造りすることを「新城直し」と言った。
 領主に冥加金、運上金を差出して販売独占の特権階級の商人が新城にもあり、「新城聞書」の享保と文政の記録に味噌・たまりの鉈屋吉左衛門、薬の三原屋紋右衛門、酒の俵屋弥兵衛・樽屋正左衛門等がそれで、これらの店先には毎日作手からの荷駄も積出しをしていたのである。馬の背で米麦・薪炭の類を新城に運び、帰りに生活物資を搬入することは雁峰を越える行程の往復に2日を要し、新城の本町の馬宿に泊るのが普通であった。「いつの夜も夜も新城通い、金の雪踏もたまるまい」の麦搗歌も、新町の八幡社前に遊女屋があったことなどからであろう。三原屋0910。天保12年(1841)以降の海老村の様子について、「山湊馬浪」の記述から同村の馬士の復興をあげているが、作手北部方面の交易の場としての海老村も大きな存在であった。また北・中河内方面は東大沼を中継基地として岡崎との交易ルートがあり、下山村に属していた関係で行政的にも商取引の面でもこのルートは太いものであった。額田町宮崎は古くから作手との交易には、千万町経由と田原坂経由があり、長者平・北畑・川合のクルマ屋は白米を宮崎に出荷していた。
(つづく)
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 注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉
 注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。


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Posted by ガク爺 at 17:00│Comments(0)作手
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