2024年09月11日
9-5 交易(2)(生業と交易・交通) (作手村誌57)

以前、2021年のとき、菅首相が不出馬を公表し、
○ 市場は「八方塞がりのコロナ対策が改善する」と株価が急上昇して反応しました。と、株価から経済に影響し、マスコミが賑やかでした。
○ マスコミは「次の…」と名前をあげ“お祭り”を始めているようです
○ 9月17日の公示を前に,マスコミが賑やかです。
総裁や党首が「次の総理大臣」となるのですから関心はありますが、いずれも党員ではありません。
多くの方が“投票権を持っていない”のに、「○○が良い」「○○はダメだ」と言われます。何か、しっくりこないのは、私だけ?
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第四編 文化 - 第三章 民俗」-「第三節 生業と交易・交通」の紹介です。
“昭和レトロが若者に人気ですが、それとは違う内容になりそうです。しかし、昔の“文化を“今”に活かしていくヒントを探ってみたいと思います。
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第四編 文化 - 第三章 民俗
第三節 生業と交易・交通
*交易
(つづき)
〔行商と出稼ぎ〕
作手村に行商が多く入るようになったのは1873(明治6)年の道路修築制度発足以後で、挙母・伊那の両街道の改良と1898(明治31)年豊川鉄道が新城まで延長されたことにより、行商の手で日用雑貨が直接民家に入った。主人の留守に妻や嫁が秘密のうちに行商人と米・雑穀で物々交換できる調法なこともあり、俗にボテフリと言い、それは薬・海産物・豆腐・蒟蒻・麹・麺類・呉服・髪飾り・金物刃物・目立研ぎ屋・こうもり傘直し・金魚鯉子・下駄の歯入れ・ラオ屋・飴売り・桶屋・鋳掛け屋・籠屋・鍛冶屋・くつ屋・戦後のパカン屋・アイスキャンデー売り等である。特に明治から大正にかけて「山窩」は異色の行商的存在であった。交易や行商による情報交換により縁談の整う例も多く、行商の訪れによって季節感を知り、その季節になって行商の来るのを待ったもので、そこに農民生活のリズムとアクセントが生じたのである。
1922(大正11)年の米価の暴落は、その後の自作・小作農家の没落をまねく事もあり「ヤスヤス」や「夜逃げ」する人も出た。段戸御料の伐木・製炭・西三河地方の砂防工事(失業対策)草葺作業等の出稼ぎと、建築大工・差物大工・左官・石工畳屋等の職人奉公、商店への丁稚奉公・女子は製糸・紡績・ガラ紡の女工、女中奉公となった少女もあり、このように自然的・地理的条件の良くない本村農家の貧困はしばらく続いたのである。
*運搬・交通
〔運搬〕
運搬・は人力による軽量物用として風呂敷・ビク・籠・手桶・重量用のショイタ・朝鮮ショイタ・天秤棒・畚・木馬があり、運搬車には大八車・ネコ車・リヤカー・一輪車等で、畜力の土ブリ・肥ハタゴ・牛馬車と自然力利用の修羅(スラ)であった。
〔交通〕
仏教東漸により、真言二世真済僧正が善福寺七坊七堂伽藍建立の際、衆僧・門弟・宗徒・工人達が来村したホージク峠(田原坂峠)が最も早くひらけ、応安年間になると見性悟心禅師をはじめ高僧・名僧がぞくぞくと入村し、163年間に25か寺が建立された(「善福寺縁起」)という。そしてその道は、奥平氏がこの作手の豪族として君臨するようになった戦国時代には、軍用路としていっそう整備された。また江戸期には、全国的に活発化した商品輸送や年貢米の搬送路あるいは、社寺参詣のための道路として発達・整備があった。
以下、村内及び村外への道路の概略を表によって下部に掲載。なお、明治~昭和の関係事項については、本誌「近代編」あるいは「現状編」を参照されたい。

※ 図をクリックすると拡大します
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
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Posted by ガク爺 at 17:00│Comments(0)
│作手
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