2025年03月13日
休んでいます + 異動検索

【教職員・公務員の異動検索】
あの先生は、どこへ
新しい先生は…
あの方は、どこへ
新しい担当は…
中日新聞・東京新聞に「教職員・公務員の異動」が掲載されるのに合わせ、ネット検索(先生サーチ・公務員サーチ)ができます。(4月31日まで)
これまでに発表されている県・市の職員・教職員の異動が調べられます。
(利用には、中日新聞プラスへの会員登録が必要。)

タグ :教員
2025年03月11日
14年目の「あの日・あの時」。

「あの時」、2011(平成23)年3月11日 14時46分頃、マグニチュード9.0、最大震度7 の大地震でした。
今年2024(令和6)年1月1日 16時10分頃、マグニチュード7.6、最大震度7 を観測しました。これより前16時6分には最大震度5強 の地震があり、その後も6弱、5強の地震が続く能登半島地震が起こりました。
3月11日あれから14年、東北地方は“つくり直す”ことができているでしょうか。
ふつうに朝がきて、ふつうに一日すごして、ふつうに夜がくると思っていた。
地震と津波であっけなくこわされてしまった日常。
それをもう一度つくり直すのが、生き残ったわたしたちの使命だ。(中学生の言葉より)
東日本大震災から復興(福興・復幸)する東北に、縁をいただいた釜石、吉浜、南三陸などを何度か訪れました。
訪れるたびに街や野山の景色が変わり、そこに復興(福興・復幸)の姿がありました。そこで感じたことを、職場の人や子供達に語っていました。
○ 東北地方は「復興しなくてはならない地」である。被災地の生活を、早急に復旧しなくてはならないのは当然のことです。その上で、誤解を恐れずに記せば、「復旧に続く、復興の価値はどの程度か」を考え、判断、決断を迫られることがある、と話しました。
○ そのために、多くの資源(モノ、カネ、ヒト)が投入されている。
* もし、当地が被災地になったとき、「復興しなくてはならない地」であるだろうか。
* もし被災したとき、当地の「復興した後」は、どのような姿なのだろうか。
今の東北地方は…。
20年目の東北地方は…。
能登半島の今は…。
5年後、10年後の能登半島は…。
あなたの「防災、備え」は、5年後の暮らしに活きて…。
命を守りつなぐ「防災」、その先への「復興プラン・準備」は…。
10年後、あなたの暮らす地は…。
今日何を思い、明日何をする、その次は…。
【これまでの記事・3.11】
◇10年目の「3.11」を前に。(2021/03/09 集団「Emication」)
◇13年目の「あの日・あの時」、そして「今年」。(2024/03/11 集団「Emication」)
◇12年目の「あの日・あの時」。(2023/03/11 集団「Emication」)
◇11年目の「あの時」(2022/03/11 集団「Emication」)
◇10年目。(2021/03/11 集団「Emication」)
◇9年目の「3.11」に。(2020/03/11 集団「Emication」)
◇8年目。(2019/03/11 集団「Emication」)
◇「3.11」。「『東北お遍路』巡礼地めぐり」(2018/03/11 集団「Emication」)
◇『あきらめないことにしたの』(堀米薫・著)(2017/03/11 集団「Emication」)
【関連】
◇J-SHIS 地震ハザードステーション(防災科学技術研究所)
◇ハザードマップポータルサイト(国土交通省)
◇奇跡の集落 吉浜|津波記憶石 【大船渡市三陸町吉浜地区】
◇三浦 寛行(Facebook)
◇情熱カメラマン(@jounetsucameraman)(三浦寛行;Instagram写真と動画)
◇東北を忘れない。(Never forget Tohoku!)(Facebook)
◇気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館(@kesennuma_memorial)(Instagram写真と動画)
◇はまらいんや!気仙沼(@hamarainya_kesennuma)(Instagram写真と動画)
能登半島地震が発生し、被災者そして日本に希望と元気を届けるイラストを金沢市に住む知人が描きSNSで発信していたことを、以前紹介しました。
今日、改めて思いを込め掲載します。

「昇龍」
石川県の形は登っていく龍に例えるられることもあり、県の形をモチーフにして今年の干支の龍のイラストにしました。石川県の模様はよく見ると人々が、心を寄せて助けあって、集まっています。また背景の三角の鱗模様は厄除けの意味があり、石川県を包みました。
滝を登る鯉が、苦しみの流れにめげずに登りきれば、龍になれるという言い伝えがあるそうです。
みんなの心とちからを寄せ合うことで、被災した方々が苦難を乗り越え、滝を登りきり、龍のように天高く登っていくことを願っています。

2025年03月01日
「弥生」のはじまり
今日3月1日、「弥生」の始まりです。
旧暦では、「和風月名(わふうげつめい)」と呼ばれる月の“和風の呼び名(和名)”を使用していました。日本書紀から使われ、起源は分からないほど昔から日本人が使ってきたものです。
1月は睦月、2月が如月、そして弥生、これに続けて…、12月の師走まで。
そして、それぞれに由来があり、弥生は「木草弥生ひ茂る月(きくさ いや おひ しげる づき)」という言葉が起源です。「弥(いや)」は“いよいよ”という意味があり、「草木がいよいよ生い茂ってくる」という意味です。
何かと世間が騒がしく、社会や経済の動きから目が離せませんが、これからの“いよいよ”を楽しみたいものです。

旧暦では、「和風月名(わふうげつめい)」と呼ばれる月の“和風の呼び名(和名)”を使用していました。日本書紀から使われ、起源は分からないほど昔から日本人が使ってきたものです。
1月は睦月、2月が如月、そして弥生、これに続けて…、12月の師走まで。
そして、それぞれに由来があり、弥生は「木草弥生ひ茂る月(きくさ いや おひ しげる づき)」という言葉が起源です。「弥(いや)」は“いよいよ”という意味があり、「草木がいよいよ生い茂ってくる」という意味です。
何かと世間が騒がしく、社会や経済の動きから目が離せませんが、これからの“いよいよ”を楽しみたいものです。

2025年02月28日
6-09 南部地区の古石塔(2) (作手村誌57)

城址に続き、作手地区に残る古石塔についての記録です。
現在では、記事にある状況とは変わってしまっている場所もありますが、石塔が建てられた当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
********
第二編 歴史 - 第二章 中世
第十節 古石塔
(つづき)
*南部地区の古石塔
〔和田出雲守墓〕 大字保永字エマツ(山林) (図35)
佐宗候計宅裏に2基の宝篋印塔があり、双方の間に「出雲明神」と記された石碑が祭祀されている。出雲明神というのは奥平貞俊の二男貞盛で、貞盛が出雲守貞盛と称したところから、後世、石碑の建立に際し、「出雲明神」と記されたものである。この出雲守貞盛は最初岩波に居住したが、1537(天文6)年石橋館の戦で、亀山城主奥平貞勝を援け、その功により和田城主となった武将である。宝篋印塔は建立以来幾星霜も経過しているにもかかわらず、損傷はほとんどなく、往時の姿をそのまま伝えているかのようで、村内の宝篋印塔のうちでは、保存状態の良い方である。

総高は70cmで、基礎19cm×23.8cm、笠14cm×26.3cm、相輪37cm×12cmである。
左側のものも右側同様に塔身が無い。そのうえ相輪の宝珠部分が欠落しており、右側に比較して総体的に小柄である。
総高は51cm、基礎17cm×19.2cm、笠11cm×24.5cm、相輪23cm×11cm
○ 出雲明神祠(1基) 砂岩製で江戸時代中期以降と推定される。全体的にしっかりしているが、前の柱二本が紛失している。
総高は4.8cm、基礎10cm×20.5cm、祠の総高38cm、屋がい幅25cmである。
〔黒谷久助墓〕 大字高松字松葉沢30番(山林) (図32)
この墓所について、『旧作手村誌』には、「大字高松北赤羽根黒谷源造氏の宅地の地端山林に…」とあるが、現在は同地には無く、字松葉沢のものを、その墓と称し、松尾大明神として祀っている。久助は奥平氏に仕官として、1573(天正元)年8月21日の打木の戦いで武田勢と激戦の末戦死した。

○ 宝篋印塔(3基) 室町時代中期末と江戸初期のもので砂岩製。3基いずれも完全なものは無い。
総高50cm、基礎21cm×21cm、塔身は無く、笠14cm×26cm、相輪も無く、宝珠15cm×10cmである。他は省略。
○ 一石五輪塔(3基) 砂岩製の室町後期と推定されるもので、2基は完全だがいずれも粗雑である。
全高51cm×幅20cmである。
(つづく)
********
注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
注3)古石塔の所在記号が付されたものは、前項の分布図に表記されている箇所です。
《参考》
○ 古石塔とは、古くからある石造りの仏塔や石の塔を指します。
○ 石塔の種類?
層塔、宝塔、宝篋印塔、五輪塔、板碑、笠塔婆、無縫塔、石幢 など
○ 石塔の建立目的
仏塔は、仏教の開祖であるお釈迦様のお骨である舎利を納め供養する建物であるストゥーパ(サンスクリット語)に由来するといわれてます。
タグ :作手村誌57
2025年02月27日
6-08 南部地区の古石塔(1) (作手村誌57)

城址に続き、作手地区に残る古石塔についての記録です。
現在では、記事にある状況とは変わってしまっている場所もありますが、石塔が建てられた当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 - 第二章 中世
第十節 古石塔
(つづき)
*南部地区の古石塔
〔菅沼主水墓〕 大宇大和田字内ノ沢(寺境内) (図41)
慶雲寺裏に高さ70cmの宝篋印塔がある。主水は菅沼定芳の五男定賞で、海老菅沼氏3,000石の初代であり、慶雲寺の開基である。
〔鈴木金七郎重正祠〕 大字田代字大田代 (図38)
金七郎は設楽郡川上村(新城市)の生まれで、1575(天正3)年5月14日夜半、武田勝頼の軍に包囲され、籠城の長篠城から織田・徳川の援軍を求めて脱出した鳥居強右衛門勝商に次いで、同18日深夜脱出に成功、翌19日弾正山の家康に来援を謝し、城は堅固である旨上意を伝え帰城しようとしたが、家康の言に従い在陣し、合戦後一旦川上村に引き戻り、のちに作手の大田代に閑居して農業を営み田代鈴木氏の始祖となった。
○ 祠(2基) 花崗岩製で、右に「金七郎」、左に「同室」の祠が有る。金七郎の屋蓋には下り藤の家紋が、また室の屋蓋には菱カタバミの紋が有る。これも江戸時代初期末の作と推定される。
金七郎墓の総高は、160cm、台座10cm×53cm、塔身42cm×36cm、屋蓋23cm×58cm、宝珠26cm×13cmである。
台座10cmは、50cmのコンクリート製基壇に塗り込められた上に出ている。塔身前部の右側に「鈴木金七郎重正」、中央に「三州設楽郡田代村」と読める。また左側面は右側面同様の字のように見えるが判然としない。
室墓の総高は、115cm、台座10cm×56cm、塔身38cmっける43cm×35cm、屋蓋42cm×61cm、宝珠25cm×12cmである。
これにも右側に「鈴木」の文字が読めるがその他は判読不可能である。屋蓋は金七郎のものに比較して角張り、反りが少ない。
(つづく)
********
注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
注3)古石塔の所在記号が付されたものは、前項の分布図に表記されている箇所です。
《参考》
○ 古石塔とは、古くからある石造りの仏塔や石の塔を指します。
○ 石塔の種類?
層塔、宝塔、宝篋印塔、五輪塔、板碑、笠塔婆、無縫塔、石幢 など
○ 石塔の建立目的
仏塔は、仏教の開祖であるお釈迦様のお骨である舎利を納め供養する建物であるストゥーパ(サンスクリット語)に由来するといわれてます。
タグ :作手村誌57
2025年02月26日
歴史から考えた(2.26事件、二〇三高地)

また、昭和40年に生まれた方が60歳の還暦を迎える年です。
“人生100年時代”と呼ばれて久しい今、還暦を話題にするのは相応しくないかもしれませんが、2025年に「100、80、60、40」と並ぶ数字に、意味があるように思います。
それは、次への“起点”であり、新しい“出発点”となるもの(年・数)です。
1936(昭和11)年の今日、ニ・二六事件が起こりました。
4年前(1932/05/15)の五・一五事件に続いて、軍隊の将校達が起こした反乱です。
それぞれ反乱は鎮圧され、失敗でしたが、政党政治が終わり軍国主義が台頭していきました。
歴史の節目となった出来事です。
明治時代に起こした日露戦争(1904年2月~1905年9月)があります。
ロシアの朝鮮進出をくいとめ、自国の独立と安全を守るために戦った…。
NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲で二〇三高地が描かれていました。旅順攻囲戦では最大の激戦地となった場所です。
圧倒的に不利な状況で“死闘”の末、二〇三高地を陥落させました。勝利…。
もし、この戦いに敗けていたら、その後の日本、昭和は別のものになっていた…。
勝利を喜び、意味のある戦い(日露戦争)と指導者はいうでしょう。しかし、その勝利は数多くの「歩兵・兵の犠牲」によって為しえたものです。ドラマのなかでも、そのことが出てきます。
さらに、この戦いで“小が大に挑む愚かさ”を学んだはずなのに、昭和に“同じ節目”を作ってしまいます。
5.15、2.26 も、その節目になってしまいました。
よい戦争や意味のある戦争はありません。
勝利は、犠牲になった人の元には届きません。
戦争は、起こしてはいけないのです。
誤った節目を生まないよう、歴史を知り・学び、考え、行動したい。
世の中、「良い人ばかりだから、争い(戦争)が起こる」のです。だって「自分は悪くない。悪いのは相手」だそうです。
悪い人が攻撃されるのは当然…。
本当ですか。
「悪いのは私」という“悪い人ばかり”になったら、争い(戦争)は起こらないでしょう。
すべての戦争、紛争の犠牲者に 合掌
【関連】
◇戦後80年/昭和百年(読売新聞)
◇プレイバック 昭和100年(産経新聞)
◇昭和100年祭 | 昭和200年に向けたカルチャー創造宣言
2025年02月25日
【備忘録】「学校規模の適正化」から考える

少子化の進展は、多くの地域で“小規模校の増加”として表れています。
昨年の夏、文部科学省から「令和5年度 学校規模の適正化及び少子化に対応した学校教育の充実策に関する実態調査」の結果が発表され、域内に小規模校があると回答した市町村が8割以上でした。
そうした小規模校を対象に“学校統合”を進めて、「学校規模の適正化」を図っていきます。
しかし、それが進められない場合が増えているそうです。
学校間の距離が遠過ぎる、すでに自治体で1校となっているなど、過小規模の学校があっても「統合の対象となり得る学校がない」という自治体が11%ありました。
“適正な”学校規模とは…
小規模校1校の自治体は…
“トヨタ”のある豊田市でも、少子化への対応が急がれているようです。
豊田市内の一部の小学校で、児童数の減少が顕著になってきている。市教委の調査では、全校児童数30人以下の小学校が現在の8校から2030年度には20校と倍以上に増えると予測されている。児童数も現在の約2万2千人から同年度には約1万8千人に減る見込み。(略)◇学校再編、しこり避けて 豊田市議会9月定例会…(中日新聞Web)
「児童への対応は、質的、量的な面で難しくなっている」。2日の一般質問で、市教委の山本浩司教育長はこう答弁した。(略)
市教委が08年に定めた「学校規模の適正化に関する基本方針」では、12学級以上24学級以下を推奨し、選択肢の一つに「地域合意を前提とした統廃合」を挙げている。この方針により10年には藤沢小、12年には築羽小が、適正規模を外れ、改善の見込みがないとして統廃合に至った。本年度はこの方針が改定される予定だが「小規模校への対応として、ベースとなる部分は変わらない」と(略)
ただ、具体的な適正化の方向性については検討中。岩月課長は「通学距離や地域の状況なども踏まえる必要があり、すぐに統廃合の議論に入るわけではない」と語る。
少子化が進む中、全国各地で学校再編が進められている。記者(25)が通った都内の母校でもかつて、統廃合の議論が巻き起こった。校舎はどこに置くのか。伝統や地域の輪はどう維持するのか。議論は紛糾し、保護者や子ども、地域間の溝を深めた。統廃合は避けられたが、そのしこりを感じることは今でもある。そうならないためにも、地域や行政は現実を冷静に見つめ、時間をかけて準備していってほしいと願う。
子供は、どのような規模を“適正”だとするのだろう…
学校には、“リアル”も“バーチャル”もありそうだが…
50年後、100年後の日本社会に生きる「学校」って何だろう…
【参考】
◇Facebook投稿 2024/08/02
◇東愛知新聞 2023/11/15 記事
【 #新城市 】こども園統廃合視野に、小学校再編へ
— 【公式】東愛知新聞Web@豊橋・豊川・蒲郡・田原・奥三河 (@Higasiaichinews) November 14, 2023
13日・市役所
新城市の第2回総合教育会議が開かれ、小学校の再配置について協議しました。
安形博教育長
「統廃合など何らかの選択が迫られている時期にある」
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