2023年04月20日
3-3.5 ふたたび東郷東小学校へ(3) (昭和に生きる)
天気のよい暖かい日になりました。
今日は、二十四節気の一つ「穀雨」でした。春のやわらかく温かい雨が降って、穀類の芽が伸びてくる頃です。この時期に種蒔きをすると作物の生長に欠かせない雨に恵まれと言われます。
桜をはじめ草花の生長が早くなっており、二十四節気など暦とは合わないこの頃かも…。
午前中、小学校の校長先生から、“最近の学校や地域の活動”についてお話をお聞きしました。
新型コロナ禍の“感染対策を第一”とする“制限のある日常”から、子供達が生き生きと活動できる“新しい創造の日常”へと歩んでいます。
わくわくする話をお聞きできました。ありがとうございました。
故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。
渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“根”そして“幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。
本書のなかから、“その時”に読んで学んだ校長室通信を中心に紹介していきます。「考える」ことが、若い先生に見つかるといいなあと思います。
この項は、「小学校の校長として」から構成されています。
********
戦後教育史の片隅に生きる
小学校の校長として
ふたたび東郷東小学校へ 学校新聞「東」
昭和五十六年、東郷東小学校の学校新聞「東」の一号から現在にいたるまでの全紙面の合本作成が計画された。それは、そのまま戦後の小学校の歴史であり、“おらが学校”の歩みをたどることでもあった。
その巻頭につぎのように書いた。
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歴史の証人
──戦後の“おらが学校”の歩み
すでに東郷東小学校が再出発してから三十有余年がたった。そして三千余人の子どもたちが元気に学校を巣立っていった。
学校の歩みの証人は、いまも“松の木”にのみ頼っているばかりでは、まことに心もとないといわなければなるまい。母校のありし日のあるがままの姿と、その動きを、なんとかしてつぎの世代に伝えることが、今に生きるものの務めではないかと考えたのであろうか。その手はじめとして、昭和五十三年一月に創立七十周年を記念して、難事業といわれる“同窓会名簿”が先人のご努力によって発刊された。
こんどは本年度PTA役員を中心に、戦後の学校新聞「東」を集大成していこうということになった。いわば“歴史の証人”第二弾というべきか。思えば創刊号がお粗末なワラ半紙に騰写刷で発行されたのは、遠く今をさかのぼって昭和二十五年四月のことである。それから齢を重ねて百五十三号で現在となる。
新聞「東」には、そのときそのときの学校の動きやようすが、ことこまかに報道されている。今まで「東」に尽くされたPTAの新聞委員の方々や先生方のご苦労が行間ににじみでているのを、わたしたちは知ることができるのである。けれども、新聞「東」は子どものいる家庭にのみ配布されるのが習わしであり、また年に少ないときはわずか三回ということもあって、長く保存するというのにはまことにうまくいかないようになっていたのである。今回も残念にして創刊号、103、105、111、114号の五号はどうしてもみつからなくて、廃号の止むなきにいたってしまったのである。そこで、学校再発足の昭和二十二年四月と昭和二十五年四月までの戦後のあの空白を、新しく創刊号としてつくり、二十二年・二十三年・二十四年度の卒業生の写真を載せることによって、その穴埋めをすることとし、戦後の東の学校の歩んだ栄光の道をつなげようと試みたのである。
この戦後の学校の歴史の重みのなかから、新しい東郷東小学校の進むべき方向を模索しないことには、学校の真の発展はありえないことであろう。そして学区のみなさんとともに手をとり合って”おらが学校 東”をよりよい学校にしていきたいものだと念願をする。そのとき、ふとわたしの頭を、「第三弾はどんな内容のものになるのか、あるいは、つぎの“東の総集編”ができるときは、いったいどんな時代になっているのか」という思いがかすめるのだった。
================
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で
注2)掲載しているイラストは、学年通信(1993・1994年度)用に教員が描いたもので、図書との関連はありません。
今日は、二十四節気の一つ「穀雨」でした。春のやわらかく温かい雨が降って、穀類の芽が伸びてくる頃です。この時期に種蒔きをすると作物の生長に欠かせない雨に恵まれと言われます。
桜をはじめ草花の生長が早くなっており、二十四節気など暦とは合わないこの頃かも…。
午前中、小学校の校長先生から、“最近の学校や地域の活動”についてお話をお聞きしました。
新型コロナ禍の“感染対策を第一”とする“制限のある日常”から、子供達が生き生きと活動できる“新しい創造の日常”へと歩んでいます。
わくわくする話をお聞きできました。ありがとうございました。
故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。
渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“根”そして“幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。
本書のなかから、“その時”に読んで学んだ校長室通信を中心に紹介していきます。「考える」ことが、若い先生に見つかるといいなあと思います。
この項は、「小学校の校長として」から構成されています。
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戦後教育史の片隅に生きる
小学校の校長として
ふたたび東郷東小学校へ 学校新聞「東」
昭和五十六年、東郷東小学校の学校新聞「東」の一号から現在にいたるまでの全紙面の合本作成が計画された。それは、そのまま戦後の小学校の歴史であり、“おらが学校”の歩みをたどることでもあった。
その巻頭につぎのように書いた。
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歴史の証人
──戦後の“おらが学校”の歩み
すでに東郷東小学校が再出発してから三十有余年がたった。そして三千余人の子どもたちが元気に学校を巣立っていった。
学校の歩みの証人は、いまも“松の木”にのみ頼っているばかりでは、まことに心もとないといわなければなるまい。母校のありし日のあるがままの姿と、その動きを、なんとかしてつぎの世代に伝えることが、今に生きるものの務めではないかと考えたのであろうか。その手はじめとして、昭和五十三年一月に創立七十周年を記念して、難事業といわれる“同窓会名簿”が先人のご努力によって発刊された。
こんどは本年度PTA役員を中心に、戦後の学校新聞「東」を集大成していこうということになった。いわば“歴史の証人”第二弾というべきか。思えば創刊号がお粗末なワラ半紙に騰写刷で発行されたのは、遠く今をさかのぼって昭和二十五年四月のことである。それから齢を重ねて百五十三号で現在となる。
新聞「東」には、そのときそのときの学校の動きやようすが、ことこまかに報道されている。今まで「東」に尽くされたPTAの新聞委員の方々や先生方のご苦労が行間ににじみでているのを、わたしたちは知ることができるのである。けれども、新聞「東」は子どものいる家庭にのみ配布されるのが習わしであり、また年に少ないときはわずか三回ということもあって、長く保存するというのにはまことにうまくいかないようになっていたのである。今回も残念にして創刊号、103、105、111、114号の五号はどうしてもみつからなくて、廃号の止むなきにいたってしまったのである。そこで、学校再発足の昭和二十二年四月と昭和二十五年四月までの戦後のあの空白を、新しく創刊号としてつくり、二十二年・二十三年・二十四年度の卒業生の写真を載せることによって、その穴埋めをすることとし、戦後の東の学校の歩んだ栄光の道をつなげようと試みたのである。
この戦後の学校の歴史の重みのなかから、新しい東郷東小学校の進むべき方向を模索しないことには、学校の真の発展はありえないことであろう。そして学区のみなさんとともに手をとり合って”おらが学校 東”をよりよい学校にしていきたいものだと念願をする。そのとき、ふとわたしの頭を、「第三弾はどんな内容のものになるのか、あるいは、つぎの“東の総集編”ができるときは、いったいどんな時代になっているのか」という思いがかすめるのだった。
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(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で
注2)掲載しているイラストは、学年通信(1993・1994年度)用に教員が描いたもので、図書との関連はありません。
Posted by ガク爺 at 17:17│Comments(0)
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