2024年04月09日
山笑う…。 8-4 「ブッポウソウ」と鳴く鳥(2) (昭和に生きる)

「もし、津波や地滑りで東名高速道路が不通になったら…」と防災の視点から、新東名は重要な道路で、東名から離れた山間地を通っているのだと思います。
広く走りやすいですが、東名のような変化は少なく、“山ばかり”見ているような道路です。
それが、先週とは違い、「山笑う」の形容がピッタリとする景色でした。
桜の花の淡い色、濃い色、中間の色…、春の花…。
木々の新芽の緑、若葉の緑…。
木々、草花の息吹が、生き生きとした様子を見せてくれました。
“山笑う”季節です。
これからも、「山滴る」、「山粧う」、「山眠る」の季節を愉しむ暮らしをしたいと思います。
故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。
渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“根”そして“幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。
この項は、「第四章 ハナノキの下で──教育断想」から構成されています。
この「少年の日のため息」は、渥美氏の生き方に影響を与えた少年時代のできごとを綴っています。
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ハナノキの下で──教育断想
3 少年の日のため息
──CK「ブッポウソウ」放送をめぐって
「ブッポウソウ」と鳴く鳥
(つづき)
「ブッポウソウ」の鳴き声が文献に残る最初は、弘法大師の漢詩だといわれ、それ以後、「ブッポウソウ」の“声”と“姿”がはっきりむすびつかないまま、きれいな美しい鳥「ブッポウソウ」と名がつけられてきたのであるが、これに疑問がだされて、学界でもまだはっきりしない時期で論争がなされていたのである。
※ 「ブッポウソウ目ブッポウソウ科」そんなときもとき、鳳来寺山の中継直前になって鳥学界の大御所である内田清之助が「迦葉山と同じように、仏法僧はたぶん鳴かないだろう」とラジオでしやべったものだから、ますます騒ぎは大きくなっていった。学者たちは、仏法僧の正体をめぐって、いわゆる“声のブッポウソウ”か、あるいは"姿のブッポウソウ”かをめぐって論争が活発になり、世の人びとは、鳳来寺山のブッポーソーは、はたして鳴くのか、鳴かないのかの論議に花を咲かせていた。そのころ鳳来寺山のブッポーソーは、学者や世間の人びとをあざ笑うかのように、さかんに「ブッポーソー、ブッポーソー」と美声をひびかせていた。竜介少年は、勉強を終え、裏の庭にでて鳴き声を聞きながら、えらい学者はなにをいっているのかと反発を感じながら、放送のはじまる日を待っていた。
CK放送、大成功!
昭和10(1935)年6月7日の運命の日が訪れてきた。その日は豪雨だったが、それも昼過ぎにはやんだ。午後9時55分に始った放送は大成功であった。放送時間の30分をほんとうによく鳴いた。"ブッポー、ブッポウソー”と金属的な鳴き声が電波にのって、初めて全国の茶の間に届けられたのである。
その夜のようすを
「耳をすましていると鳴く!、第一声!、続いて第二声、あとは決可のいきおいだ。金属板を打つような精力的なハリのある声が、やみに発してやみにこだましていく。」と伝えている。
※ JOCKニュース 昭和10年7月1日付CK発行この6月7日のラジオ放送を聞いた人は、全国で二百万とも一千万人ともいわれている。中継放送が終ったとたんに、名古屋や東京の放送局には、
「霊鳥、仏法僧の声をよく聞かせてくれた。」という感謝のことばや、
「アナウンサーなど人の声はいらないぞ、鳴き声だけを聞かせろ。」などという抗議に近い内容をふくめて電話や電報が殺到した。
2日目の8日の夜も、仏法僧は鳴きつづけた。二夜が明けて、鳳来寺山と鳳来寺村はすっかり有名になっていた。放送直前のゴタゴタにこりごりしていた村人たちも、やっとのことで溜飲を下げたのである。竜介少年も大人の人たちと同じようによろこんでいた。
鳳来寺山からのラジオの中継放送は、全国に大反響をまきおこしたものの、一方では、千年来不思議がられた“声の主”がなんであるのかの学問上の論争が急転直下、解決に向けてうごき出したのである。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
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