2023年03月13日

3-1.9 「奥平貞治」 (作手村誌)

花0313。 昨夜から雨でした。
 久しぶりに“激しい降り方”で、乾燥していた空気や土地が、しっかり湿りました。



 『作手村誌』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。
 昨年の大河ドラマが鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。
 『作手村誌』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。
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    第二編 村の沿革と歴史

    人物 奥平氏
  奥 平 貞 治
 貞勝の三男、信昌の叔父、藤兵衛、幼名清三郎。第百六代正親町天皇の元亀三年十二月三方ヶ原の戦、天正元年八月奥平貞能、信昌父子作手立退きの戦。天正三年五月長篠戦に於ける鳶ヶ巣山の夜襲。天正十二年四月小牧山の陣に出軍して各戦功を奏す。天正十四年信昌と共に上洛し、太閣(豊臣秀吉)に仕えて五千石を拝領し黄母衣の士に列す。第百七代後陽成天皇の慶長五年六月、徳川家康、上杉景勝(謙信の後嗣会津百二十万石)を征討するに当り結城秀康(家康の第二子)に属す。同年九月関ヶ原(美濃国)の戦起るに及んで東軍(徳川家康方)の軍監を以て西軍(石田三成方)の将小早川秀秋の松尾山の陣に使し即時内応決行を迫る。秀秋乃ち老臣松尾主馬の遮るを肯かず、先隊をして西軍の将大谷吉隆の陣営を衝かしむ、吉隆反撃して之を退治するや、貞治直ちに手兵五十騎を率いて縦横馳突大いに敵陣を悩ましたりと錐も、遂に吉隆方の将牧村三左衛門に討たる。貞治0313。然れ共松尾山の一戦は、重大なる影響を戦局に与えたり。徳川家康深くこれを愍み一死戦局を制するの功預りて多きに居るを賞し、後嗣を祿せんとすゐも子女なきを以て、近江国のうち三百石を生母に給いて老を養わしむ。「奥平藤兵衛貞治戦死の地」と題する豊碑関ヶ原古戦場に存し遣香を千載に放てり。
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 注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で
 注2)本誌の本文内で、小文字や2行表記等されているものを、( )で示している。  
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Posted by ガク爺 at 17:00Comments(0)作手