2023年08月22日
研修会。 6-9 菅沼城趾 他 (作手村誌)

午後、三河教育研究会算数数学部会夏季研修会(豊田大会)があり、分科会、講演に参加しました。
三河地区の先生方が、“これからの算数数学の学び”について、提案と検討そして学び合っていました。
現職の先生方の熱心な姿、助言、講師の先生方の知見に、錆びついた頭の“新鮮な刺激”になりました。
ありがとうございました。
『作手村誌』(1960・昭和35年発行)から「第四編 文化 - 第三章 史蹟名勝並に主要天然物」の紹介です。
登場する史蹟や名勝は、今も多くの人が知るものですが、本誌発行時とは変わっています。その姿、環境など、比べながら読んでいただきたいと思います。
また、それらを「どのように残していくのか」「守っていくのか」、そして「その価値があるのか」を話題とし、考える機会にできればと思います。
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第四編 文化
第三章 史蹟名勝並に主要天然物
(つづき)
菅沼城趾
菅沼地内字城山という山上に趾跡がある。正長元年菅沼信濃守俊治居城し、城趾は耕地となり堤塁隍形等推して知ることは出来るも一見明瞭でない。城主として菅沼信濃守俊治が領主であった。永享六甲寅年三月二十四日土岐大膳太夫興安、同孫太郎頼房、その弟新二郎光貞、同新三郎定直等大将軍家の命を受け討ち取ったと言う。又菅沼に始めて来た時は不明。
菅沼本城趾
菅沼字前田にあり俗に本城と呼ぶ山野に添う地で東西五十四メートル南北三十六メートル程の地となり凸凹そのままを耕地としてある、故に旧形の見える所はない、が相察することは出来る。菅沼信濃守定直居城、三河菅沼の祖である。土岐小次郎とも言い美濃の住人山岐 浅野二郎光兼の二男であった。三河富永信資に養われ伊賀守資長と名乗り後、菅沼九郎左衛門の婿となり俊治を討取り、後信濃守新三郎定直と称した。領主となりそれ以後子孫益々繁栄新城城主海老城主野田城主長篠城主島田城主皆其の一族であった。
賽神城趾
清岳市場字本城山にあり、古宮城を離てる数百メートルの位置、元龜年間古宮城を築き、後武田の臣が来て築城、後人砦城と言う。
里人は本城ととなえ字名も本城山という。当時奥平氏と武田氏と和睦の際の合議により武田方之を築き、文珠山城を奥平氏築き和睦の証とした。この時武田方は古宮城と並んで重任者の臣を置いたと郡誌調査等実査に明かされており只砦城といつて見分け難い。此処に現形図堤塁残存等を記し研究の資とする。
山の高さ七十余メートル城跡円形、頂上三百三十平方メートル、堤塁の巾二、七メートル、周囲高く一乃至二メートルあり南面に入口がある。後方に同一の形で百平方メートル、東に同じく百平方メートル及び三十三平方メートル位の平地に土塀がある。西方には百九十八平方メートルの平地と土塀を周らし、山野の中腹に井跡がある、山頂より井跡まで直立十八メートル余り、又井道の形も残存している。頂上城趾に大正年間建立大国尊が奉祀してある。
文珠山城趾
清岳字見徳又字松本という山上に三百平方メートル以上の平地があり周囲に一乃至一、二メートル位、巾一メートル位の堤塁を備える南東に巾五、四メートル深さ一、二乃至一、五メートルの壕があり、今までに調査されたことが少なく、只奥平の砦城と言われたのみである。故に郡誌編纂にも漏れている。一夜城と呼び元龜年間塞神城と共に築く筈にて武田と和睦し荏苒延して武田氏より強談に合い奥平氏一夜に之を築いてしまったとて其の名がある。
後里人頂上の平地中央に文珠仏を建立大に面目を変更したヶ所多く仏段に「西須山村東市揚村」とあり村界であることが明らかである。
(つづく)

※右図(城址・古石塔・寺院分布図)をクリックすると拡大。
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