2023年08月29日
緊急提言…。 6-12 石橋弾正祠 他 (作手村誌)

昨日、中央教育審議会の特別部会が 「緊急的に取り組むべき施策(提言)」を出しました。
ニュースや新聞の取り扱い方はさまざまですが、緊急提言と言いながら、これまでに提案や報告されたことであり、具体的な取り組みにはならなそうな気がします。
働き方の視点から、「慣例的に続けられてきた…」の見直しを今回も求めています。それを理解しつつも、入学式や卒業式などで「形式的な部分を見直して…」とする例示には、「子どもの学び」(教育)を遠ざけること、価値を失うことになる学校が生まれそうで心配です。
学校環境、労働環境を高度に整備していくことが大切です。そのために提言の実現は緊急なのでしょう。
しかし、その前に、立場のある方々による「子どもの学び・教育」を正面に据えた論議・決定が必要だと考えます。
いかがでしょう。
『作手村誌』(1960・昭和35年発行)から「第四編 文化 - 第三章 史蹟名勝並に主要天然物」」の紹介です。
登場する史蹟や名勝は、今も多くの人が知るものですが、本誌発行時とは変わっています。その姿、環境など、比べながら読んでいただきたいと思います。
また、それらを「どのように残していくのか」「守っていくのか」、そして「その価値があるのか」を話題とし、考える機会にできればと思います。
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第四編 文化
第三章 史蹟名勝並に主要天然物
(つづき)
石橋弾正祠
大字清岳字寺屋敷慈昌院境内の西の寺墓の傍にあり、石橋弾正は、幼児貞勝を亡そうとする心のあるを覚られ夜討に合い同族一夜に討たれ死んだと言う。川合禅源院の旧記に、天文六酉九月二十一日の夜都合四十五人打取りたもうとある。石祠約五十五センチメートルの高さにて横面に弾正宮と刻んである。
石塔ヶ根墓
大字清岳巴山の碑を西南に隔てること数百メートルの山頂に一松樹孤立しその本に高さ一、三メートル巾九十センチメートル奥行九十センチメートル程の石を積んだ岩窟がある。その中に高さ四十五センチメートル程の観音の石像を安置してある、里人大日如来と云う。又その前方に数多の天然石の一メートル四方高さ四十五センチメートル位の墳が八個程ある。天正元年八月奥平貞能父子武田氏と此処に戦い時の戦死者を集め埋葬したところと伝えられる。 。
奥平家廟所
大字白鳥川合区北坂という山林の東端にあり、明治維新前までは慶蔵寺という真言宗の寺があり其の境内の東端にあり、五輪塔五基がある、高さ五十四センチメートル位で高さ九十センチメートル位の石垣を積み五基その上に揃っている、俗人お地蔵様と云い参拝者がある。川合禅源院旧記によれば、亀山城主奥平貞俊・貞久・貞能・貞勝・貞昌即ち信昌の五城主を改葬墓所とした地で慶蔵寺は同墓守寺であったと云える、今では廃寺となり一切禅源院に併せ禅源院に安置の観音の木像仏は同寺の本尊仏だったと云われる。
奥平家第二廟所
大字白鳥川合区加藤甚平氏裏山の西端即ち北坂に接する地で山上に石垣を積み五輪三基が建祠される。これぱ奥平家の室三人の改葬墓所であり五輪は三十九センチメートル位の高さであり傍に彼岸神・稲荷大明神・地の神の石祠が安置される。
奥平貞久墓
大字清岳市場区内亀山城趾の東北に字六畑という山林がある、この中央部に高さ四十五センチメートル程の五輪塔を建設して祀り、俗人六畑地蔵という。
奥平貞久墓
大字清岳市場区内字小米沢の南端畑中に塚があり塚上に老檜があったが昭和二十五~六年頃伐り去られた、又拳母街道改修のとき塚の南端を切り落されている。石祠があり後人の建立したものでこれを御姫塚と古来から伝えて今尚存在する。
加藤源左衛門墓
大字鴨ヶ谷字中屋敷と呼ぶ地の上部畑中に石塚があり往古邨宅があった所である、此処に墓が建設してある。
(つづく)
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