2024年08月19日

8-1 「衣」(衣・食・住) (作手村誌57)

映画0819。 『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第四編 文化 - 第三章 民俗」-「第二節 衣・食・住」の紹介です。
 “昭和レトロが若者に人気ですが、それとは違う内容になりそうです。しかし、昔の“文化を“”に活かしていくヒントを探ってみたいと思います。
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    第四編 文化 - 第三章 民俗
(つづき)
     第二節 衣・食・住

  *衣
〔仕事着〕
 第二次大戦前までの男子はハダジュバン(肌襦袢)、フンドシの上へ腰下を着、股引きをはいてテコウにキャハンを付け、ワラジを履き、冬はその上ヘドウギ又はハンテンなどの綿入れを着て足袋をはいたが、戦時中から長ズボン、靴下などに変って現在の服装に近づいた。
 1935(昭和10)年ごろまでの女子は、ジュバン・コシマキの上ヘツッポやナガギを着、冬はソデンコやハンテンを着用し帯をしめ、マエカケをあてたが、その後着物は腰までのものが多くなってモンペ姿になり、逐次ツツソデからブラウスに変った。

〔日常着〕
 1905(明治38)年ごろからメリヤスが現われたが、村内ではあまり着る者はなかった。昭和20(1945)年代からワイシャツ・開衿シャツ・丸首シャツなどが一般化してきた。
 1935(昭和10)年ごろから女子小学生がズロースをはくようになり、若い女性の間に急速に広がった。そのころから成人女子はユカタ地などでアッパッパーを作って着ることが流行した。その後簡単服とともにスカートが流行し中年女性も着用するようになった。

〔晴れ着〕
 男子=絹製縞の着物・黒紋付きの羽織・センダイヒラの袴を着用し、白足袋・下駄又は雪駄をはき、センスをもち、ときには裃を着用することもあった。1955(昭和30)年ごろからモーニング、略礼服が多くなった。
 女子=白木綿の襦袢にネルの腰巻き、絹の長襦袢、白リンズか練り絹の白無垢、黒紋付きの着物か裾模様の留袖、丸帯、白足袋、座打ち下駄。葬式の場合には白喪服を用いたが、戦後黒喪服に変わり次第に洋装が多くなった。

〔その他〕
 (寝具) 一般に唐草模様の木綿か縞の手織り木綿の布団を使用した。一部には木綿の布片を綿の代用にしたり冬期など藁布団を使うこともあった。
 (かぶりもの) 作業時は菅笠・竹皮の編笠、手拭などで、手拭を男子はネジリハチマキ、ムコウハチマキ、普通にかぶって後で結ぶなどしたが、女子はアネサンカブリ、アトカブリ、ゴゼカブリなどであった。寒いときは男女ともホッカブリをした。
 外出用には鳥打帽子やカンカン帽が多かったが、1937(昭和12)年ごろから中折帽子が流行した。最近は自家用車の発達で無帽が多くなった。
 (履物) 昔は藁草履が一般的であったが、最近は合成皮革やゴムのサンダル類、ズック靴、革靴などがあたり前の履物となった。
(つづく)
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 注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉
 注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。


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Posted by ガク爺 at 17:00│Comments(0)作手
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