2019年05月01日
令和元年。「佐宗氏の由来」(つくで百話)

昨日の退位,そして今日の即位と続き,マスコミは“一色”でした。
《毎日新聞》 新天皇陛下(59)は1日午前、皇居・宮殿「松の間」で、「即位後朝見の儀」に臨まれた。天皇として国民に向けた初めてのおことばで「自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、寄り添いながら、憲法にのっとり、象徴としての責務を果たす」と述べた。同日午前0時、元号は「令和」に改まった。前回の改元とは異なり,“新年・正月のような祝賀気分”に包まれています。
この気分を活かして,社会の勢いとなっていくことが楽しみです。
我が勢いは…。
『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)から「村の起原と人物」から紹介です。
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佐宗氏の由来
佐宗氏の先祖は蘇我馬子からでているといわれております。蘇我氏は大和国に住んでいましたが,その子孫が相模国にうつりました。蘇我と云う姓が曽我となり,ついで佐相から佐宗とかわったようです。佐宗氏は北条氏の部下で中流の武士でありました。
南北朝から戦国時代の初期の頃,遠江や三河の戦いに,三河地方へ派遣された三千余名の鎌倉の武士の中に佐宗氏がありました。その中に三河へ定住したものが三河佐宗氏の先祖です。
只今の新城市の臼子城主に佐宗大膳重之という武将がありました。この人が三河佐宗氏の重鎮でありました。離合集散の眼まぐるしい移り変りの中に,佐宗大膳も奥平氏と手を握り,その有力な武将となりました。長篠戦争ののちに,佐宗大膳の子孫と,その一族が作手郷に入りました。和田の佐宗氏,戸津呂の佐宗氏が作手佐宗氏の草分けとなりました。
戸津呂佐宗氏の一派が中河内佐宗氏となりました。そして,その一派が大和田にうつり大和田佐宗氏となったのが,佐宗氏分布の経路と思われます。
中河内佐宗氏が宇多天皇の子孫である近江の佐々木六角の末裔と云う説は信憑性が乏しいといわれております。佐宗氏研究に没頭された秩父佐宗本家の当主である佐宗正氏は,佐宗大膳の一族が作手に定住したものと力説されております。
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佐宗氏の話では「蘇我馬子」が登場しています。こうした“歴史の人”が地域に関わっていることに不思議さを感じるとともに,情報伝達の方法も移動(交通)の方法も無に近かっただろう時代に,「どのようにして…」と興味がわきます。
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