2020年03月16日

作手の弓道(1)(続 つくで百話)

雪0316。 朝,外を見ると“白く”なっていました。寒い朝です。
 日差しがあって雪は溶けていきました。

 青空だった空に雲が広がり,急に雨が降ってきたり,突風が吹いてきたりする荒れた天候になりました。
 昼頃には,霰や雪も降りました。出先から見る“本宮山の景色”は真っ白でした。

 今冬は暖かく,草花の開花が早まっていますが,この寒さ・冷え込みで,いつもに戻るかな。



 『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手の弓道」の項からです。
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    作手の弓道

昔の弓術
 作手の弓術も,剣術と同じように元亀天正の戦国時代を契機として勃興したようです。奥平の家臣に斎藤小六という強弓の誉れ高い武士がありました。小六は後に徳川家に仕え,大阪陣に加わって功名がありました。小六は善夫の出身でありましたので,大字善夫字高産の姉川の北堤の上に葬られました。高さ五〇センチ内外の五輪の塔が彼の墓であります。
 幕末の頃,大和田に愛宕流武術の達人稲吉庄右衛門応貞がいたことは前篇でのべましたが,応貞は弓術の名人でもありました。山野にでかけて,小鳥や獣を弓で射とめて帰り,家の土間には,いつも沢山の獲物がぶらさがっていたという話が語り伝えられております。

明治以後の弓術
 作手の弓道の大部分は,日置流印西派の流れを汲むものであり,作手弓術中興の功労者は,長者平の斎藤彦右衛門都利でありました。この斉藤都利は,今の高里郵便局長斎藤彦右衛門の先祖でありまして,明治初頭から二十有余年の間,作手弓術界の大御所的存在として,幾多の門人を育成しております。彼は日置流印西派の弓術家でありましたが,日置流弓術は,徳川時代から額田郡宮崎地方で発達しまして,梅村四郎左衛門から始まって六名ばかりの免許皆伝の達人が輩出しております。斉藤都利は,真木喜右衛門直竜から免許をうけて,その門人を引きついでおりますが,その中には,作手郷の門弟二十名くらいが記録されております。

日置流印西派弓術系図
  ※図略

斉藤彦右衛門都利門人
  ※名簿略
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Posted by ガク爺 at 17:00│Comments(0)作手
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