2020年04月20日

作手の剣道(16)(続 つくで百話)

工作0420。 朝は強い雨が降っていましたが,徐々に小雨になり,午後は上がりました。

 用事があって出かけました。テレワークとはいかない職場では,これまでのように出勤されているようでした。
 買い物に立ち寄った店舗では,それなりに人の姿がありましたが,レジのところに飛沫等を避けるように透明のシートが下りていました。

 感染の拡大が治まり,縮小に向かっていくよう,自分のできることはきちんとしていきたいと思います。



 『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手の剣道」の項からです。
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    剣道を実生活に活かす阿部金重

銃剣道と剣道
 彼は大正十二年工兵隊入隊と同時に銃剣道の練習を始めておりますが,剣道の方は,ややおくれて,翌十三年十一月,当時の東三河剣道界の大御所的存在であった右武学院主堀田徳治郎教士に,その手ほどきをうけたのが始まりで,異例の中年剣道でありました。その頃は,峯田与志一先生と鈴木房吉先生(現範士八段)のお二人が代稽古をつとめておられました。鈴木房吉先生には爾来四十八年間に渉り今日まで指導をうけております。
 終戦後は,倉光成資先生の高弟であった新城市の大久保一先生の指導をうけたことも剣道上達に大きく役立っているといっておりますが彼の剣道は,何といっても堀田徳治郎先生の卓抜した技倆と高潔な人格によって啓発されたものと思われます。つづいて陸軍戸山学校の普通科及び長期学生として白井陸治助教(現銃剣道範士九段)に徹底的に鍛えられたことから急速に上達をとげております。
 その後陸軍士官学校時代には,中山博道,大島治喜太,梅川熊太郎,白土留彦等の各範士の指導をうけて一段と磨きがかけられた観があります。
 彼の五十年間に渉る剣業修業には幾多のエピソードがありますが,それらのいくつかを拾いあげてみたいと思います。
 三段時代には,東京都の大学,高専等の各種剣道大会に出場するごとに優勝して“陸軍の阿部”として王者の貫録を保持しておりました。
 例年,明治神宮大会には剣道並に銃剣道選手として出場して大活躍をいたしました。
 新京における関東軍大会には選手として,また審判員として出場しておりますし,彼が指導した下士官や兵から優勝者も出ております。
 伊香保にあった講談社道場には屢々招聘されて,昭和剣道大会で優勝して,青年剣道界の麒麟児と謳われた野間匠先生(野間社長令息)と試合を重ねたことは終生忘れ得ない懐かしい思い出と述懐しております。
(つづく)
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【おまけ】
*『「緊急事態」宣言』 さだまさし


*関白宣言替え歌 『緊急事態宣言のうた



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Posted by ガク爺 at 17:00│Comments(0)作手
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