2020年05月26日

和田城址と和田佐宗氏(1)(続 つくで百話)

花0526。 曇りで蒸し暑い一日でした。
 外出自粛で出かけなかった所へ,久しぶりに行き,“新鮮”な感じがしました。
 次はいつになるかな…。



 『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「和田城址と和田佐宗氏」の項からです。
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    和田城址と和田佐宗氏
       和田 佐宗候計

 太田亮氏は姓氏家系大辞典の中で「奥平氏の出自については異説あり。」と述べておられますが,同氏の所説と、作手村誌に載せられている資料を比べると,細部に就いては幾分の喰い違いがあります。即ち,太田氏の説によりますと赤松播磨守則景の後裔児玉庄左衛門定政が尹良親王に随従し,応永三十一年,上州より三河国作手郷に移るとありますが,村誌では「赤松則景が治承四年,源頼朝が兵を挙ぐるに当たり関東へ下向し,頼朝に属して功あり。始め北条義時の女をめとりて長子家範を産む(赤松家の嫡流)後上野国甘楽郡司平姓畠山小幡右衛門尉政行の女と婚して次子氏行を挙ぐ。氏行出でて外祖父政行の子畠山小幡太郎行綱に養われ小幡四郎衛門と称す。又藤原姓児玉本庄左衛門尉家貞の婿となり,両家を継承して上野国甘楽郡司の職を襲い,郡内小野庄奥平村に住す。これより奥平を以て苗宇となす。氏行二子あり。長を吉行又は持氏或は持貞といい,次を崇行という。崇行は畠山小幡家を継ぎて小幡右衛門佐と称し,吉行は児玉奥平家を承けて児玉奥平二郎太郎と称す。氏行より以下七世百九十余年を経て,八世の孫貞俊故ありて上野国奥平邑を去り三河国作手に移りて,ここに新興の緒を定む。」とあります。
和田0526。 貞俊の長子は貞久,次男を貞盛といいました。貞俊は,次男貞盛に和田地方の領地を与えて,和田城を築かせました。貞盛は和田出雲守と称して,和田城の城主となりました。
 和田城は,和田部落の南側の中央部にある小高い丘陵地帯を卜して築かれました。東西三六メートル,南北六三メートル,およそ七十アールくらいの広大なものでした。現在佐宗直茂さんの家に向いている東側は一五メートルくらいの急峻な土塁となっており,西,北部の低い部所でも三,四メートルの土手になっております。東南隅の一番高いところに物見櫓が建てられまして,その南側に深い空濠が掘られました。四百余年を径て,余程埋められたものと思われますが,今でも三メートルくらいの深さがあります。当時としては,かなり要害堅固な城址であったろうと思われます。

(つづく)
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Posted by ガク爺 at 17:10│Comments(0)作手
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