2023年04月18日
3-1.21 「奥平信昌(5)」 (作手村誌)

『作手村誌』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。
昨年の大河ドラマが鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。
『作手村誌』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。
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第二編 村の沿革と歴史
人物 奥平氏
奥 平 信 昌
(つづき) 第百七代後陽成天皇の慶長三年八月十八日、豊臣秀吉嗣子秀頼(六才)を大阪城に残し六十三才を以て伏見に薨ず。秀吉薨後、家康の行動によからぬ思いを抱きし石田三成(西軍)は同志を糾合し、豊臣氏のために家康を除かんとして慶長五年九月十五日美濃の関ケ原に於て家康(東軍)と戦う、信昌また家庚の麾下として出陣す。軍散じて後、初代京都所司代に補せられ宮闕守衛(内実は朝廷、公卿の動静を監視し勢力の仲張を阻止する)の重任につく、慶長六年所司代を罷む、同時に美濃加納に封ぜられ(三男忠政と共に大垣領五万石及び新田三万石並びに上野国吉井二万石合せて)十万石を賜る、別に人の粧田として美濃国厚見郡吉屋村三千石を賜う。信昌 第百八代後水尾天皇の元和元年三月十四日加納城に卒去す、歳六十一、久昌院殿秦雲道安大居士と謚す、加納増瑞寺に葬る。夫人徳川氏(亀姫)寛永二年五月二十五日加納に於て卒す、六十四才、盛徳院殿香林慈雲大姉と謚す。
信昌、四男二女あり、長男家昌(天正五年新城之生)奥平家を継ぎ、その子孫相承けて各地に転封す。而して昌成以来百五十五年間豊前国中津に在り。明治二年昌邁時代藩籍を奉還す。次男家治(天正七年新城出生)天正十六年より松平家治と号し上野国長根七千石を賜る、従五位下右京太夫に叙任、文緑元年三月四日江戸に於て卒す、歳十四。
三男忠政(天正八年新城出生)文禄四年十六歳従五位下飛弾守に叙任、慶長二年菅沼大膳亮忠利に養われ上野国吉井二万石を領す、慶長五年家昌と共に秀忠の軍に従い信濃国上田城に至り真田昌幸、幸村を攻む慶長六年美濃国加納城に至り(信昌に従い)四万石を領し二ノ丸にいる、慶長七年父信昌致仕後六万石を拝して本丸を守り「松平」の称号を賜り美濃国諸大名の旗頭を命ぜらろ、慶長十三年従四位下侍従に任ぜらる、慶長十四年摂津守と改む、慶長十九年十月二日加納に於て卒す。三十五歳。嗣子忠隆継ぐ、祖父信昌慶長二十年三月死するやその遺領四万石を受けて十万石となる。寛永九年一月九日死す、歳二十五、子左京寛永十二年七月四歳で死亡、加納奥平家断ゆ。
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で

Posted by ガク爺 at 19:00│Comments(0)
│作手
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