2024年11月25日
14-6 普請(2) (作手村誌57)

調べると、帝国データバンクが独自に算出している経済指標で、カレーライス1食あたりのトータルコストで示されていました。最近の上昇は、原材料の価格高騰からきているのは予想できましたが、調理コストが下降している年・時期がありました。その要因は、何だったのでしょう。
“モノの価格の上昇”と“生産者・労働者の賃金の上昇”、このバランスが良好であるには、どうすればよいのでしょう。
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 - 第二章 中世」-「第七節 城郭概説」の紹介です。
「歴史」について、これまでに『作手村誌』(昭和35年版)の記事を紹介しています。
項目立てを変えて述べられいる本版から、執筆当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 - 第二章 中世
第七節 城郭概説
*普請
(つづき)
城で重要なものに「水の手」がある。水がなくては人も馬も一日も生きてゆけない。その大切な水が山城や平山城ではなかなか確保し難い。稀に城中に井戸や泉のある場合もあるが、大方は池を掘り内部を赤土でたたき固め、表面を壁の如く塗り廻し、軒の雨水を一滴も余さず懸樋で導き貯めた。また大甕をいくつも並べ天水をこれに貯えることは、最も普遍的な飲料水対策であった。
また谷川の水を遠くから城中にひく、上水道を暗渠式の埋樋にする方法もしばしば行われた。谷間に水源を保護する井戸郭、水之手郭を設けたり、水櫓でこれを汲み上げたりした。攻城の際は金掘りをして坑道を掘らせ、井戸水を涸らす方法がとられ、野田城はこれで陥落している。
城に通ずる坂道、その他一般道路も難路をえらび、故意に屈曲させて敵の侵入を防ぎ、味方の拠点となるよう工夫され、階段•隧道も必要に応じて工夫された。今でも新城市街平井に2か所、市民病院前に1か所、道路が鉤の手に曲る所がある。あれを「桝形」といい、軍事目的で作った道路屈折施設の名残りで、昭和交通の難所となっている。

根小屋は城郭に付属した集落のことである。はじめは臨時的であった戦争が、戦国時代となると慢性化し、豪族はいつでも戦争ができる態勢をとらざるを得なくなる。そこで従来は、少数の近親者しか手元に置かなかったものが、一人でも多く集めて置こうとする。その際領主の居館は高い所にあり、家来の住居はその下方にあったので、根小屋・麓などという地名が生まれた。
城や郭の出入口を「虎口」といい、山城の自然の屈折から思いつき、曲って中部に入る桝形・虎口外の屈折施設としての「馬出」が、中世末期には現れてくる。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
《参考》◇「地域の話題」から(リンク集)(2024/10/04)
Posted by ガク爺 at 17:00│Comments(0)
│作手
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