2018年04月28日
歓送迎会。文集「こうやまき」 その1。

新緑を楽しむ日でしたか。
今夜,千郷地区歓送迎会がありました。
これは,千郷地区の小・中学校で校長の退職・異動があった時に催されます。今回,中学校長が定年で退職し,新しい校長を迎えました。
元中学校長として参加しました。
久しぶりにお会いする方と,当時のこと,小中学校のこと,そして,これからのことと,いろいろなお話をお聞きしました。
これからの千郷地区,新城市,作手地区を考える話題で,じっくり話ができました。
ありがとうございました。
退職された校長先生,ご苦労さまでした。
新しい校長先生,よろしくお願いします。

五十年前の子供達が,“昔のこと”を記録しています。
現在から言えば“大昔のこと”であり,貴重な話,内容です。
地域の歴史の一端として,少しずつ紹介していきます。
最初は,「表紙絵の紹介」と「はじめのことば」です。
表紙に描かれているのは「奥平家の船印」です。
表紙解題 奥平家の船印各学校に“校章”が定められたことにより,“徽章”は使われなくなっていますが,地域には,今もこの紋を見ることができます。
峰田 晴雄
軍配団扇に五階松は奥平家の船印として使用されたものでありまっす。奥平家は1424年(応水31年)3月群馬県甘泉軍奥平村(高崎市西方約8キロ)より奥平八郎左エ門貞俊が高里の川尻に移住してきました。その後間もなく清岳の市場に亀山城を築いて城主となり子孫代々ここへ住んでいましたが六代後の信昌(貞昌)が1575年(天正3年)2月月21才の若さで長篠城主に任ぜられました。その年の5月に武田勝頼の大軍にかこまれしたが,徳川家康,織田信長の応援により立派に防戦しました。その功労により信長から武者之助信昌の名を受け新城に移りました。
船印とは船舶の所有者,所属する国,乗手などを人に知らせる為に用いた印のことで大昔は紋章入りの陸上用の旗をに立てた程度てありました。後になって軍船の帆に藩主などの紋を大きく入れるようになり同時に幕やのぼり,吹き流しなどにも入れ,更にすすんで衣服,住家,諸道具にまで紋を入れてその存在をはっきりさせるようになりました。
村内甘泉寺にある全国的な文化財「こうやまき」をとって題名とし150年の間作手を治めていた奥平家の紋を表紙に入れこの文集がこうやまきのようにすくすくと高くのびてゆき作手の歴史のように長くつづけたいと願うものてす。
尚この紋章は作手村の小学校の徽章に取り入れられていました。
作手に育つわれら発刊(1970年)から半世紀が過ぎ,「作手村」は無くなりましたが,「清く澄みきった作手の空」「田畑」,「この道」「その空」「山々」「道路」は,今も“ここ”にあります。
井上 良男
私たちの祖先が明け暮れ仰いて過ごした清く澄みきった作手の空,四季とりどりに美しい姿を見せてくれる山々。祖先が粒々辛苦して耕した田畑,祖先が通いなれたこの道。そしてその空,山々,道路を私たちもまた眺め,通って今日までに成長して来ました。
「作手村と私たち。」
悠久と続く時間の流れの中に,作手村という一つの固定した空間と,現在という限定された時間の中に生命を維持しつづけているという現実は,これは何人も否定することのできない事実なのであります。
我が住む場所,我が郷土を楽しく美しいものにしたいという念願は,祖先から一貫して変わらない私どもの理念なのであります。
祖先たちがどれほど心血をそそいでこの作手村の発展のために尽して来たか。そのためどのような風俗,習慣が行なわれて来たか。私たちはその尊い足跡について,もっとよく知る必要があると思います。
道端の一握りの土くれにも,どんなに多くの人々の汗の結晶がこめられているか知れません。
この度,みなさんの手で作手村についての文集が刊行されることになりました。私たちはこの文集を一つの手がかりとして作手村のことについてますますよく調べ理解し,理解することによって,いよいよ郷土作手村を愛し,その発展のために考え,話し合い協力しあって,ますます立派な作手村にするため,心がけていきたいものだと思います。
文集『こうやまき』に綴られた姿から,作手地区の今とこれからを考えることができるでしょう。
次回の記事をお楽しみに。
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