2023年11月01日
5-4.5 生きて働くきまりに(5 提言) (昭和に生きる)

暖かい日が続いていますが、季節が移り霜の降る日が増えてくることでしょう。
寒さへの備えはできていますか。
ビックリ!
昨日、帰宅して余裕があったので、洗車を始めました。タイヤから洗っていて、「何だ、これは!」と手が止まりました。針金のようなものが刺さっていました。
いつ、どこで、どのよにして刺さったのか、タイヤの空気は抜けておらず、気づいていませんでした。
早速、パンク修理に出かけ、タイヤの状態を確認してもらいました。ありがとうございました。
故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。
渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“根”そして“幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。
この項は、「第三章 学校をつくる──見はてぬ夢を追って」から構成されています。
この章では、「子どものいる学校、子どものいる教室」をモットーにして、学校経営の実践を具体的に述べています。若い先生にとって、これからの「授業を考える」ことができるといいなあと思います。
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新城小学校での夢
(2) 生きて働くきまりに ──きまりを減らす努力──
(つづき)
提言(1) ──きまりを少なく
先に述べた教師の姿勢の転換をはかりながら共通理解をはかっていくことを根底にして、つぎの諸点を提言してみたい。
1 きまりを少なくしていく立場に立つ
手形の乱発は、子どもがきまりに対して正対することをあいまいにさせる。きまりを少なくしようということは、きまりが不必要だと考えているのでなく、きまりは「みんなで守る」ということがだいじであることを願ってのことである。みんなできまりを守るという態度を培っていくことが法治国家の国民として当然であろう。その意味では、きまりにあくまでもこだわっているといってよいであろう。
実情に合わないきまりは、実情に合ったものにするのは当然であるが、少しは荒治療かもしれないが、たとえば週訓など一度やめてしまうことはどうだろう。なくても別にどうということはない。いわばしめつけの枠から子どもを解放することによって、かえってのびのびと子どもたちは学校生活を送るようになる。
このような立場に立って、きまりをだんだん減らしていくのであるが、現存するきまりは、みんなが守りながらよりよいきまりにしていこうという態度をつくる姿勢が、そこではつらぬかれていなくてはならない。

2 あとしまつに重点をかける
あたりまえと考えられるしつけにあっても゛知的なもの”とのかかわりがなくてはならなかった。しつけ、きまりの対象となる内容は、きわめて複雑であるのに、そこを割り切った指導ではどうにもならなかった。具体的な場でどう対決するかは、ねらいが抽象的なものから具体的なものにならなくては指導が生きてはこない。例えば「廊下を走らない」というきまりを撤回して、「走れ」といったらどうだろう。そこでは、他の教室の勉強の邪魔にならないように走れ、友だちとぶっつからないようにしないと危険であると指導をすればよい。子どもたちは音をたてないように走るにはどうしたらよいかを相談するであろう。指導のねらいが空手形でなく、指導のあとしまつに目を向けるとき、そこには一人ひとりの子どもが好むと好まざるとにかかわらず登場するようになる。したがって指導はさらにきめ細かさを加えてくる。
きまりを減らそうと努力するとき、教師の子どもに対するみ方、考え方が変わり、より深いところで子どもをとらえるようになる。それにつれてきまりのとらえ方も、またおのずとちがったものになってくるようである。
(つづく)
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※ この項は、雑誌「学校運営研究」の昭和61年10月号に「学校のきまりを考える」特集に執筆されたものです。
注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で
注2)掲載しているイラストは、学年通信(1993・1994年度)用に教員が描いたもので、図書との関連はありません。
Posted by ガク爺 at 17:00│Comments(0)
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