2021年07月11日

2.(11-2) 戦争と郷土 (わたしたちの村)

蓮0711。 朝,少し雲が目立ちましたが,日中は晴れて気温が上がり,暑い一日になりました。


 今日,古いPCが戻ってきました。Windows7を10にアップグレードしたもので,まったりと動きます。
 この状態で使う予定はないので,Chrome OSをインストールしてChromebook化することにしました。
 USBに必要なプログラム,データをインストールして,そのPCで起動すると…。
 あれっ,USBからブートしない…。
 今日は,ここまでにして,ゆっくり原因を確認します。



 郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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    (十一) 戦争と郷土

   3 戦争中の生活
 太平洋戦争が始まると,作手村からも戦場へ送り出される若い男の人がどんどんふえていきました。
 若い男の人たちが少なくなった村では,年よりや女の人たちが一生懸命に田や畑をたがやし,米やムギやイモなどを少しでも多く作って食べ物に困らないように努力しました。小学校の子どもたちや作手農林学校の生徒たちも,手伝いに出ました。
 戦争が進むにつれて,食料や生活に必要な物が,ますます足りなくなってきました。そこで,作手村でも,お米のかわりにサツマイモやカボチャを食べ,フキやワラビそのほか野山にはえていて食べられる物は,なんでも食料にしました。
着物0711。 着る物もほんの少しの配給品だけで,買うこどができなくなってしまいました。古い着物を出して作り変え,やぶれるとつくろって着ました。つぎはぎだらけの物を着ているのがあたりまえになっていました。
 鉄やそのほかの金属類は,兵器をつくるために供出しました。毎日の生活に必要な物だけ残して,なべやかま・金属の火鉢・お寺のつりがね・橋の手すり・学校の鉄棒などもみんな取りはらって供出しました。
 1944(昭和19)年から,空襲をさけるために,町から作手の親類をたよって疎開してくる人が多くなり,学校の児童・生徒が急にふえました。1940(昭和15)年と1945(昭和20)年の生徒数を比べてみると,菅守小学校では61人,開成小学校では33人もふえています。
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 注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で
 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
 注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。  


Posted by ガク爺 at 17:00Comments(0)作手