2025年02月13日
5cm高く…。 6-01 古石塔 (作手村誌57)
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ご存じでしたか。
でも、“誤差の範囲”ではないの…。
明治時代から「水準測量」により行われていましたが、2025年4月1日に衛星測位を基盤とする最新の値「測地成果2024」に改定することに伴い、衛星測位を基盤とする最新方法での再測量を進めているそうです。
富士山の他にも高さの変更があるのでしょうね。
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 - 第二章 中世」-「第十節 古石塔」の紹介です。
城址に続き、作手地区に残る古石塔についての記録です。
現在では、記事にある状況とは変わってしまっている場所もありますが、石塔が建てられた当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 - 第二章 中世
第十節 古石塔
村内に現存する古石塔の種類は他市町村と同様で、宝篋印塔・五輪塔及び板碑である。数の上からは五輪塔が一番多く、中でも一石五輪塔が他を抜いて多い。次いで宝篋印塔・板碑の順であるが、板碑と称するにはあまりにも末期的なものなので省く。
中世の三河の石塔は、大体鎌倉時代以降であるといわれるが、本村のそれも古い物でも室町中期ころの造立である。中部地方の地質は関西から矢作川流域まで花崗岩地帯であり、豊川流域以東の加工石材は主として砂岩が主体となる。初期のうちは西三河製のものが東三河にもたらされたが、これは当時の文化が西から東に向って伝播されたからである。しかし西から伝わった石工技術は、花崗岩地帯の先端にあたる矢作川流域にもたらされ、次いで豊川流域の砂岩地帯に伝わった。この様な過程を経て東三河式となり、加工の容易な玖老勢石(南設楽郡鳳来町玖老勢産)による墓碑が産出されたのである。これも初期のうちは、幡豆郡の吉良吉田付近で西三河の石工によって作られたのではないかと言われる。したがって、村内の古石塔のほとんどが玖老勢石であるので、前記の観点や型式からして、それらは室町中期以後のものとみるのが妥当であろう。古石塔分布図は「作手村の城址」の項を参照されたい。
〔宝篋印塔〕
この塔は、平安中期に中国から伝った金塗塔の形に源流をひいたといわれている。塔身に宝篋印陀羅尼を納めたのでこの名が起ったが、一般には城主あるいは領主など支配階級の墓である。宝篋印塔は上から、相輪・笠・塔身・基礎・基壇からなっているが、この地方では基壇は見うけられない。相輪は宝珠・請花・九輪・請花・伏鉢より成り、笠は軒上に4段と軒下に2段の露盤(六段)があり、四隅に耳形の突起が付いている。笠の下に方形の塔身があり、基礎は塔身と接する所に2段を設けているが、これは笠の軒下と同様である。五輪塔4面には東方発心門・南方修行門・西方菩提門・北方涅槃門と梵字が刻まれるのが普通である。
西三河式は関西式の省略されたものであるが、東三河式は前記の西三河式を継承している。しかしながら東三河式は、それがさらに省略されて、古くは9本の凸帯になっていた九輪を7本からさらに5本とし、のちには凸帯を単なる刻線にまで省略している。請花は西三河式が8弁ないし6弁であるのに対し、東三河式では6弁から4弁となり多くは3弁である。また古いものは上下の花弁が互生であるが、新しいものは上下同位置であり、しかも蓮花には見えない。伏鉢も同様で鉢を伏せた形にはなっていない。笠は軒上3段、軒下が2段となっているが古いものには軒上4段のものもある。笠の四隅に突起が有るが古いものは直形三角形になっており、時代が下るに従い馬耳状の弧を描いた形になりしかも大きくなって外側へ突出しており、周囲に太い覆輪がついている。塔身には金剛界の四仏の種宇(梵字)を刻むのが普通であるが、村内のものには彫刻されたものはほとんど無い。この他不思議なことに村内の宝篋印塔のほとんどの塔身が無い。
〔五輪塔〕
五輪塔は平安後期より供養塔・墓標・舎利塔の意味をもって現われ、地方で最も親しまれた石造物であり、積石五輪と一石五輪に分かれる。積石五輪は特信の武士のものが多いといわれる。この地方では一石五輪が多く、これは長篠合戦当時の戦死者の墓とみてよかろう。
五輪塔は宇宙構成原素である地・水・火・風・空の五輪を、それぞれ方形・円形・三角形・半円形・宝珠形で現わし、これを塔形に積み上げるが、時代が下るに従い地輪は台座になり、水輪は塔身に、空・風・火の三輪は屋蓋の形の様になってくる。室町時代以降は宝珠の形が乱れ、空・風の両輪は同じ大きさのものが多くなり、各輪間の切れ目もはっきりしなくなる。五輪塔は普通四方に東方癸心門・南方修行門・西方菩提門・北方涅槃門の梵字を刻むが、水輪の四方に金剛界や胎蔵界四仏の種字(梵宇)の刻んだものもある。このほか仏像を示したもの、妙法蓮華経の5字や南無阿弥陀仏の6字を配したものもある。この様に五輪を積み上げるものを積石五輪と云う。
一石五輪は一つの石材を彫刻したもので、室町中期頃から非常に普及し、主に武士の墓として用いられてきた。東三河で砂岩製の東三河式が認められるのは室町中期以降のことである。東三河でも三河湾沿岸と豊川上流とでは製法が少し異なる。それは西三河式技法を用いて玖老勢石で作っても、仕上げはノミで突いたものではなく、刃物の様なもので削っているからである。ノミで突く場合は火輪の斜面などを丸くへこますことが出来るが、刃物で削る場合は平面となる。したがって、火輪などが平面なものはこの地方で製作されたものと見てよかろう。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
注3)古石塔の所在記号が付されたものは、前項の分布図に表記されている箇所です。
《参考》
○ 古石塔とは、古くからある石造りの仏塔や石の塔を指します。
○ 石塔の種類?
層塔、宝塔、宝篋印塔、五輪塔、板碑、笠塔婆、無縫塔、石幢 など
○ 石塔の建立目的
仏塔は、仏教の開祖であるお釈迦様のお骨である舎利を納め供養する建物であるストゥーパ(サンスクリット語)に由来するといわれてます。
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