2025年02月04日
5-17 岩波城址・鴨ヶ谷城址 (作手村誌57)

「歴史」について、これまでに『作手村誌』(昭和35年版)の記事を紹介しています。
項目立てを変えて述べられいる本版から、執筆当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 - 第二章 中世
第九節 作手の城址
(つづき)
*岩波城址
〔所在地〕 作手村大字岩波字浅間山 (図12)
〔面 積〕 約150平方メートル
岩波はむかし岩滑と書いたという。下岩波から大和田へこす山径、茶屋屋敷の北方にある城ヶ峠の山頂に構えられた見張・狼煙のための素朴な山城である。150平方メートルほどの三段の小削平地がある以外には、何の施設も
ない。地名でも分かるように、南北朝期から存在した古城の一つで、北方木和田の城ヶ峯、西方長者平の本城山と呼応したものと考えられる。
城主は奥平出雲守貞盛、その子貞寄、その子勝次で、勝次はその後和田に移り同地に城を構えている。下岩波字池田の道ばた山林中に塚があり、1838(天保9)年10月吉日作という出雲明神の石祠がり、今も村人の祭祀をうけている。『三河二葉松』に「岩波浅間山城」とあるのは、本城の北方に浅間神社を祀る山嶺があるので、それと混同したようである。
*鴨ヶ谷城址 (図17)
『旧作手村誌』には、「鴨ヶ谷地内に築城。奥平伯耆守水心が住む旨、古城記及城主記等に乗っているが址跡不明。里人も知らず」と載せている。鴨ヶ谷地内に城郭にふさわしい地を求めるとすれば、それは甘泉寺の他にはない。しかし甘泉寺の創建は応安3年(1270)当村の巨族加藤甲某が、その宅を喜捨して寺としている。応安は北朝年号で奥平氏来住以前である。「水心」も坊主らしくおそらく法名と思われる。
甘泉寺の裏山で、鴨ヶ谷・岩波・川尻三村の境界をなす山頂に、愛宕様を祀る処がある。小平地をなし展望もよく、物見・狼煙台として格好の地である。これらの諸事項を総合して考察を加えても鴨ヶ谷城の解明は困難である。
(つづく)
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注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
注3)右図「作手村の城址・古石塔・寺院分布図」をクリックすると拡大表示します。
《参考》◇「地域の話題」から(リンク集)(2024/10/04)
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