2025年02月19日
6-05 中部地区の古石塔(4) (作手村誌57)
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城址に続き、作手地区に残る古石塔についての記録です。
現在では、記事にある状況とは変わってしまっている場所もありますが、石塔が建てられた当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 - 第二章 中世
第十節 古石塔
(つづき)
*中部地区の古石塔
〔鳥居強右衛門勝商墓〕 大字鴨ヶ谷字門前(甘泉寺) (図16、18) 国指定天然記念物高野槇の根元にある。昔は高野槇の南側下に夫婦の墓が揃って在ったが、矢場を作るために強右衛門の墓だけ現在地に移転したといわれる。強右衛門は現在の豊川市市田の人で、妻は作手村大字清岳(市場)の紅谷家の出だと伝える。強右衛門は篠場野で磔死しその子庄右衛門信商は、1600(慶長5)年9月の関ヶ原合戦に臨んで信昌に仕えて出陣、石田三成の残党安国寺恵瓊を京都で生捕った。この功績により恵瓊の脇差正宗の名刀を給わった。次いで信昌の四男松平忠明に仕え、大坂夏の陣にも功をあげ1,000石を給付されている。ちなみに、この信商の子強右衛門正商は、忠明の二男八郎左衛門清道の家老となり、1,500石を給わっている。
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○ 宝篋印塔(1基) 塔身は無く別物を使用してある。しかし、強右衛門のものにしては時代的にやや古く、型式からすると室町時代初期のものと推定される。したがって何時の時代かに取り違えたのではないかと思われ、今後の研究を要する宝篋印塔である。
総高は89.6cm、基礎25.5cm×27.5cm、塔身(別物)16.3cm×19.3cm、笠16.3cm×26cm、相輪31.5cm×10.5cmである。
〔甘泉寺開山堂裏の墓〕
甘泉寺は奥平家の菩提寺だといわれる。とするとここには、それ相応の古石塔が存在して良いはずであるが、今のところ、この墓以外に奥平氏関係とおぼしき古石塔は見当たらない。開山堂の一角に大形の相輪と、江戸初期と推定される宝篋印塔の破片があり、強いて言えば前者が奥平氏関係、後者が強右衛門のものではないかと判断される。ところが、前掲の「強右衛門」の墓と称する宝篋印塔は、時代的に見て、強右衛門の死以前に造立されたものと考えられるので、もし、これが強右衛門と無関係とされるならば、伝えられている「強右衛門の墓」は、あるいは奥平氏関係のものとも考えることができよう。
○ 宝篋印塔(6基) 総てバラバラであり、判断に苦慮する状態である。このうち室町中期及び江戸初期の基礎各1基、中形の相輪2基、大形の相輪最大径17cm 2基が存在する。この他に高野槇の南側下方、通称「強右衛門妻の墓」と伝えられる所に、相輪残欠1基、最大径13cm、笠残欠(別物)1基がある。これは室町中期と推定される型式で、伝承の「強右衛門の妻」の墓とするには、やはり年代が古い。たぶん別人のものと思われる。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
注3)古石塔の所在記号が付されたものは、前項の分布図に表記されている箇所です。
《参考》
○ 古石塔とは、古くからある石造りの仏塔や石の塔を指します。
○ 石塔の種類?
層塔、宝塔、宝篋印塔、五輪塔、板碑、笠塔婆、無縫塔、石幢 など
○ 石塔の建立目的
仏塔は、仏教の開祖であるお釈迦様のお骨である舎利を納め供養する建物であるストゥーパ(サンスクリット語)に由来するといわれてます。
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