2025年02月18日
雨水。 6-04 中部地区の古石塔(3) (作手村誌57)

昔の農家では、冬の作業に代えて、農耕の準備を始める目安となる日です。
しかし、冬型の気圧配置が強まり、再び“強烈寒波”がやってきており、暦のようにはいきません。
凍結や積雪、寒さに備えて過ごしましょう。
この寒さを超えれば、“雪・氷から雨・水へ”と変わっていくかな…。
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 - 第二章 中世」-「第十節 古石塔」の紹介です。
城址に続き、作手地区に残る古石塔についての記録です。
現在では、記事にある状況とは変わってしまっている場所もありますが、石塔が建てられた当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 - 第二章 中世
第十節 古石塔
(つづき)
*中部地区の古石塔
〔大東峠の宝篋印塔〕 大字田原字南(通称出口の山林) (図10、11)
東田原から大東へ抜ける村道の峠左側にある。近所にあった石仏等とともに一か所へ集めたものか、多数の石仏や石塔とともに整然と並んでおり、4基のうち1基は大きなもので、塔身に梵宇が彫刻されているが、残念なことに相輪が欠失している。
○ 宝篋印塔(4基) うち2基が室町時代前期末で花崗岩製、塔身と宝珠が欠落している。この他に小形の基礎と花崗岩製で大形のものが有るが、ここには、そのうちから室町中期始めの梵宇入りのものを掲げる。
総高(相輪欠)86.2cm、基礎37cm×36cm、塔身22.2cm×23.5cm、笠27cm×43cmである。

前記宝篋印塔所在地の一角にあり、口碑に陸奥国磐城平城主の墓と伝わる。安藤氏は1803(享和3)年から1861(文久元)年天領になるまで田原村とその近村を治めた。陣屋は東海道赤坂にあり、領地の田原等へも代官が数回巡視に来たといわれる。笠塔姿で、塔身に安の一字が刻まれ塔身右側に「文化八未年」(1811年)、左側に「五月廿三日」とある。『寛政重修諸家譜』によると、安藤対馬守信成が1743(寛保3)年美濃加納城で生まれ、1756(宝暦6)5月21日陸奥国磐城平3万2,000石に移封となり、以後続いているが、これが領主の墓にしてはあまりにも貧弱である。
○ 笠塔姿(1基) 塔身中央に「安」の一字が有り、右側面に「文化八未年」、左側面に「五月廿三日」とあるが、当時裕福な農民ならば建て得た程度のもので、無傷である。
総高1m、基壇10cm×31cm、基礎14cm×38cm×34.5cm、塔身46cm×24cm×17.5cm、笠18cm×41.5cm、宝珠12cm×12cmである。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
注3)古石塔の所在記号が付されたものは、前項の分布図に表記されている箇所です。
《参考》
○ 古石塔とは、古くからある石造りの仏塔や石の塔を指します。
○ 石塔の種類?
層塔、宝塔、宝篋印塔、五輪塔、板碑、笠塔婆、無縫塔、石幢 など
○ 石塔の建立目的
仏塔は、仏教の開祖であるお釈迦様のお骨である舎利を納め供養する建物であるストゥーパ(サンスクリット語)に由来するといわれてます。