2025年02月03日
立春 5-16 小和田城址 (作手村誌57)
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『春の気たつを以て也』(暦便覧)立春は旧冬と新春の境い目にあたり、この日から立夏の前日までが「春」です。
また、立春が“一年のはじまり”であり、この日を基準にして、いろいろな節目の日があります。暦で「○○日」などと呼ばれる日の基準で、「八十八夜」や「二百十日」などは、立春を起算日として88日目、210日目の日になっています。
2025年が1か月過ぎていますが、暦に合わせ、あなたの活動を立春の日に始めませんか。
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 - 第二章 中世」-「第九節 作手の城址」の紹介です。
「歴史」について、これまでに『作手村誌』(昭和35年版)の記事を紹介しています。
項目立てを変えて述べられいる本版から、執筆当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 - 第二章 中世
第九節 作手の城址
(つづき)
*大和田城址
〔所在地〕 作手村大字大和田字城山 (図40)
〔面 積〕 約2,160平方メートル
城山の中腹標高約400mに存在する山城で、一名段戸城という。ダンドという地は段戸山をはじめ奥三河の諸所にある地名で、段の所という意らしい。この城山も極めて峻阻な山であるが城址の所だけが平坦で、東西60m、南北36mあり、三段に削平されている。土塁・空濠の設備はないが周囲に粗末な石垣がある。耕地に乏しい谷底の村だけに、20年前までは出作地として畑作が行われたので、その際障害物とし片つけ築造されたかも知れない。防御施設としては余りに貧弱である。ただ一隅に集められた塁々たる石塊の山は、おそらく防禦用のものであろう。当時の攻城戦の戦傷をみると意外に石礫や投石によるものが多い。この急傾地をごうごうと落下してゆく石塊は想像するだけでも凄まじい。背後に山を負うため東方への展望を欠くが、他の三方は視界良好で、見代城・岩波城・獅子ケ森も視野の中にある。比高差300mという高所にありながら、水に事欠かないのはこの城の強味で、清洌な泉が城中にある。
城主は始めは菅沼源助、1562(永禄5)年から奥平六兵衛吉住が代った。この人は二代貞久の弟源之丞の曽孫である。1573(天正元)年8月の戦いに、見代・宇津木に敗れた武田の敗兵が立籠ったが、麓から焼立てられて四散したという。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
《参考》◇「地域の話題」から(リンク集)(2024/10/04)
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