2016年05月17日
先人に学ぶ(3) 校長先生があいさつで
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朝は強い雨が降っていましたが,午前中には雨が上がり,光を感じるようになりました。
今朝の天気で,外出は止めにしました。
「また使う資料」として綴ってあったものを整理すると,ここにも“古いもの”がたくさんありました。
黄ばんだ更紙に印刷された手書き文字が,時代を表しています。
1982年の資料の中に,校長会を代表する方の「年度初めのあいさつ」がありました。
当時は,暴力や非行が大きな問題でもあり,そこから話が始まっていました。
(略) 起因する社会的病根には深いものがありますが,その子どもたちと家庭を構成している親たちは,すべてかつて私たちが受け持った児童生徒ばかりです。この事に思いを致すと,学校教育,とりわけ教師に問われている世の批判に,真っ向から答えねばならぬ立場であります。今日ほど教師の強靭な意志と人間的力量が問われている時はありません。
駆け出しの教師が,この文章を読んだのかどうか記憶にありませんが,「強靭な意志と人間的力量が問われている」と,その固い意志を強く語ってみえます。
つい「時代が変わった…」「社会が変わった…」と責任逃れ的な言葉を口にしてしまいますが,そうではない熱い思いを感じます。
10年前に再読したかった言葉です。
三つ目も,教師のあり方を語りかけています。
教育の営みはあくまでも一対一,教師が全生命をひっさげて,ひとりの子どもの人間形成に如何にかかわり得るかということに尽きると思います。(略) ○○先生の愛語「ひとりを粗末にする時,教育はその力を失う」ということばをお借りして (略) 一人の迷える羊(stray sheep)に寄せる同行者としての愛情と献身,親の立場に立って,ひとりの子の為に泣き,涙を流すことのできる教師,子どもの心の痛みを我が胸の痛みと感ずることのできる教師でありたいと願うのです。
「教師とは」について,校長の代表として,先達として,全教職員に語っています。
「~できる教師」との思いは,昔も今も変わらないものです。
別の校長先生のあいさつでは,五輪書の「目の玉うごかずして,両わきを見る事肝要也」を引いて体験を述べた後,
目の玉を動かしても,両わきは勿論,前さえも,なかなか見えないのが私どもの悲しさである。
しかし,たとい大人たちへの目配りは不得手であっても,子供たちに対する眼力だけはけっして誰にも引けをとらぬという自負を持つこと。「教師」とは,そういうものではあるまいか。
と「教師」を述べていました。
「一人の子供を大切にする」ことを,“校長から新卒まで”に求めていました。
やはり10年前に再読し,自身を見つめ直す機会としたかった言葉です。
先人に感謝
【今日の小咄】
国語のテストで,「『くろうと』と『しろうと』の両方の言葉を使って短文を作りなさい。」という問題が出た。
友人は,「彼は僕のくろうと努力をしろうとしない。」という強引な文を作り上げた。
Posted by ガク爺 at 19:00│Comments(0)
│先人に学ぶ
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