2020年12月21日
冬至。昔の炭焼(2) (つくで百話 最終篇)

そんな寒さの中。いつもより早く蕗の薹(ふきのとう)が出ているのを見つけました。自然の力,大地の力を感じ,感謝しました。
今日は,二十四節気の一つ「冬至」です。一年で昼が一番短く,夜が一番長い日です。「一陽来復」,日の長さは徐々に伸びていきます。
「いちようらいふく」と言葉は聞きますが,文字を気にしていないことはありませんか。以前,「一陽来福」と書いてあって,“福”を呼び込もうという言葉と思っていたことがあります。
「一陽来復」は,五経の一つ「易経」に出てくる言葉です。
復、亨。出入无疾、朋來无咎。反復其道、七日來復。利有攸往。陰暦10月に陰がきわまり,冬至に陽が初めて生じます。そして,冬至を境に日が長くなることから,冬至に太陽の力が復活してくるのです。
「復は亨る。出入疾(やまい)なく、朋(とも)来たりぬに咎(とが)なし。反復その道、七日にして来復。往くところ有るに利(よろ)し。」
新型コロナ禍の状況や社会の動きは,陰が極まった感じです。
ここから,一陽来復よろしく,陽の力がわいてくることを信じています。
『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。
********
昔の炭焼 遠山義一
(つづき)
炭窯を築くときには,原木の寄せ集めや水都合の便否を調べたり,風の方向,日あたり具合などを考えて位置の選定をしました。大昔は,山の傾斜面に向って炭窯の形に掘り込んで,壁も天井も自然の土で,ヘッツイのようなものだったそうです。その中へ原木を入れて,外から火を焚いていましたが,中々窯の中へ火が廻らず,燻っていて容易に炭にならず困ったそうです。或る日,不動尊を信仰していた若者が,例によって顔を真黒にしながら一生懸命火を焚いていると,不動尊が現われて「これでは駄目だ」といって,窯の後側に,持っておられた不動の降魔の利剣を突きさして穴をあけられた。そうすると,ここから煙がでて,焚いている火が窯の中へ吸いこまれて,炭が焼けるようになりました。それから煙のでる穴を「フド」と呼ぶようになったといわれております。また一説によると,弘法大師が支那へ留学されたとき,炭焼の方法をも研究して帰朝せられ,窯を築いて炭焼を教えられた。その時から,窯から煙道へ煙の出るところを,大師穴ということになったともいわれておりますが,真偽は定かでありません。

大昔の炭窯の,屋根や山小屋は萱で葺きましたが,火事の心配もありましたので,だんだん杉皮葺となり,近年は亜鉛板を用いるようになりました。萱・藁・菰等で屋根を葺く場合には,窯口をはさんで左右両側に,六尺から八尺の高さの柱を合掌にたてて,前記の材料で屋根を葺きました。煙道の上にも,適宜の高さで小屋根をつくりました。
炭窯の壁面は山石で積みましたが,時代がたつにつれて石垣の表面に粘土を塗って,空気もれを防ぐことにしました。
窯の入口は石積にしましたが,その上壁の部分は細長い石をかぶせて支えとしました。窯の奥に煙出しをつくるのですが,その良否によって,炭の品等が決まるといわれて,炭焼の秘伝として他人に知られないようにかくしたものでした。一つの炭山を焼き終って他の山へ移るときには,これを破壊して他人に見られないようにしたものです。ベテラン炭焼の,フド造りの秘伝を盗むために炭焼の娘と交際をして,入婿になったものもあったときいております。
(つづく)
********
注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で
注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で
注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。