2022年04月05日
公衆電話。 6(3-1) 作手の豪族と山城 (わたしたちの村つくで 改訂版)
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桜など草木の花が咲き始め,万物に清朗の気があふれてくる頃とされています。
天気の良い日で,気温が20度を超えて,とても暖かい日になり“清朗の気があふれる”感じではありますが,昨日までの寒さとの寒暖差に,体がついていけない感じの一日でした。
あなたは,最近,公衆電話を使いましたか?
「公衆電話を使ったのはいつだったかな?」と思い出そうとしても,はっきりした記憶がないほど,以前のことです。
電気通信事業法施行規則によれば,公衆電話は社会生活上の安全および戸外での最低限の通信手段を確保する観点により,市街地(国勢調査結果による人口集中地区)では500メートル四方に1台,それ以外の地域(世帯や事業所が存在する地域)では1キロ四方に1台は設置することが求められている。先日,初めての商店街を通っていて,公衆電話で話す姿を見かけました。店舗から離れ,通路に近い場所に立つ公衆電話でした。
人通りの多い目立つ場所で,公衆電話が使われていることが,ちょっと新鮮でした。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(2004新改訂版発行)の「6 作手村のうつりかわり」からです。
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3 戦いにあけくれたこと
作手の豪族と山城
ももこさんは,米福長者の伝説を聞いて,作手を支配した人にきょうみを持ちました。米福長者をたおした奥平氏はどんな人だったのか,ほかにどんな人が作手を支配したのか調べてみようと思いました。
山城を築く
作手の寺や神社の棟札には,「富永庄作手郷」と書かれたものがあります。これは,作手の村々が富永荘にふくまれていたことのあらわれです。
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富永氏のおとろえとともに,作手で大きな力を持ったのは,武士の菅沼氏と奥平氏でした。
菅沼氏は作手の菅沼をはじめとして,田峯・長篠・井代・島田・野田などに城を待ち,力をふるいました。
奥平氏は,もとは上野国甘楽郡奥平邑(群馬県)に往み,貞悛という人が1400年ごろ作手に来たのです。貞悛ははじめ甘泉寺にいましたが,しだいに実力をつけ,川尻に城をかまえました。その後まもなく,奥平氏の本城となる亀山城をつくりました。
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注)これまでの記事は〈タグ「新わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。
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